映画監督 René Clair
ルネ・クレール 1898.11.11 パリ─1981.3.15
ヌイイ=シュル=セーヌコクトーが時代の最先端を行く人たちの社交場とした「屋根の上の雄牛」でピンク色のデシンのスーツを着たマリーは、パリ中央市場の人たちが着る厚手のセーターを纏ったピカソ、パイプを燻らすキース・ヴァン・ドンゲン、フランス六人組の作曲家たちと共にピアノを弾くルービンシュタイン、そして若き映画監督ルネ・クレールたちを皮肉っぽく見つめていました。
ルネ・ルシアン・ショメットは「パリの胃袋」と言われたレ・アール地区で育ち、モンテーニュ校からルイ=ル=グラン校へとエリートコースで学びます。第一次世界大戦中は救急車の運転手をして、1918年ルネ・デスプレのペンネームで「ラントランシジャン」紙の記者となります。
一方でルネは歌手のダミアにダンスニーという名で歌詞を提供していました。ダミアの紹介で幾つかの映画に役者として出演しこの機会にルネ・クレールという芸名を名乗るようになります。1922年映画監督のジャック・ド・バロンセリの助手となり、1924年処女作となる『眠る巴里』を発表。
その後『パリの屋根の下』や『自由を我らに』などで一躍映画監督としての名を馳せ、マリーの友人モデルのブロニアと結婚します。第二次世界大戦ではハリウッドに移り、ドイツ政権下ではヴィシー政権からフランス国籍を剥奪されますが、1947年フランスに帰還し、1960年に映画人としては初のアカデミー・フランセーズの会員となりました。