【前回の記事を読む】女優、銀行員、経営者…フランス文化史に残るマリー・ローランサンの友人たち
外交官 PhilippeBerthelot
フィリップ・ベルトゥロ1866.10.9セーブル─1934.11.22パリ
第一次世界大戦後、パリのポール・ロザンベール画廊で開催されたマリーの個展は大成功を収め、殆どの作品が売却され、多くの人たちが訪れましたが、服飾デザイナーで頂点を極めていたポール・ポワレの妹であり親友のニコル・グルーが連れてきた手の大きな男は、この個展の前年1920年9月に外務省事務局長に就任したフィリップ・ベルトゥロでした。
科学者で教育大臣、外務大臣を務めたマルスランを父に、高級時計メーカー「ブレゲ」の一族であるソフィーを母に持つ、「知性的貴族」の一員として育った彼は、アンリ4世校を卒業しますが、外交官試験に2度落ちます。当時外務大臣であったゴブレの口利きでリスボン領事館書記見習いとして外交官の道に入りますが、その後2年間のアジア研修旅行によりアジア通となり、駐日フランス大使を務め、20世紀で最も重要な作家の一人としても位置付けられるポール・クローデルの親友となり、フィリップがケ・ドルセー(フランス外務省)の実力者となってからはクローデルの後ろ盾ともなります。
フィリップはマリーの作品と人柄にすっかり魅せられてしまい、その信奉者となります。またマリーにとってもある意味権力者の象徴でもあったベルトゥロとの交際は自分の成功の証でもあり、彼はマリーの側に特権的な位置を与えられます。多くの作家や芸術家と交遊したベルトゥロは68歳でパリで亡くなりました。
画家・彫刻家 GeorgesBraque
ジョルジュ・ブラック1882.5.13アルジャントゥイユ─1963.8.31パリ
「プティ・ローランサン、君には才能がある。描き続けなくてはいけない」アカデミー・アンベールでマリーの才能を見出し、こう告げた後、彼女をモンマルトルのアトリエ長屋「洗濯船」に連れて行きピカソたちの仲間に引き入れたのがジョルジュ・ブラックでした。体格がよく、スーツの似合うこの男はピカソと共に20世紀最大の芸術革命「立体派(キュビスム)」の創始者となります。絵画からジュエリーまで、生涯新しい芸術を創造し続けたブラックのことをマリーは、
「彼は高貴な動物みたいな人よ。情緒豊かなセントバーナード犬ってところかしら(C'est un noble animal.Quelque saint Bernard lyrique)」
と語っています。ブラックとマリー2人の友情は生涯続きました。
ジョルジュ・ブラックは1882年5月13日アルジャントゥイユの建築塗装の請負職人の家に生まれ、父の仕事の見習いをします。兵役に就いた後1900年にパリに来て、1902年、マリーも通っていたアカデミー・アンベールで学びます。マリーとは何でも打ち明けられる仲となりますが、シャイなブラックはマリーを恋人にすることはできませんでした。「野獣派」を経てピカソと共に「立体派」を確立し、フランスを代表する大画家となった彼のために、1961年にルーブル美術館で「ブラックのアトリエ」と題した回顧展が開催されましたが、1963年8月31日パリ14区の自宅で死去し、国葬が催されました。