そして、“宗教”とは根本の教えということでそれはそれを自分で掴み取るしかないのだと言われます。どこそこの教団に入ってその信者になって教えのままに何も考えもしないでただ隷属する、そんなことは止めろとも言われます。

「宗教とは根本的な宇宙の真理・原則の教えと言う事だ。それを神の教え仏の教えと言う。それを求めることを求道と言う。その真理を得たことを『悟った』と言うのだ」と説かれます。

沖先生は一律的な考え方を排されました。

「断食は確かに良いが、陽性タイプの元気のいい人には凄く効果があるが、しかし極陰性タイプの虚弱体質の人にとって断食は害になる。水飲み療法が合う人もいるが合わない人もいる。玄米も万人に合うわけでなく玄米に合う人と合わない人もいる。また、玄米も炊き方ひとつで体に与える影響も変わってくる。

肉食が害だと言ってもエスキモーの民には極寒の地で体を温める陽性は必需品であり、簡単に肉食は駄目だと言えるものではない。菜食一つとっても単純に『菜食主義』などと言えず、卵や牛乳を許す菜食もあれば、一切の動物性を摂らない菜食もあり、玄米中心の菜食もあれば、玄米は入れない菜食もある。果物は駄目だと言っても赤道直下の暑いところでは極陰性の果物を摂らなければ体は焼けてしまう。

お酒をとっても全然酒が体質的に飲めない人もいれば飲める人もいる。お酒が害になる人もいればお酒が益になる人もいる。お酒で調子が良くなる人も過ぎれば必ず害になり、ましてや年を重ねればほとんどの人が害になる。しかしロシアなどの寒いところではアルコールを入れなければやっていられないところもある。

ところが変われば効果も変わる。行でも水をかぶる水行は若い時には必要だが老人になったら『年寄りの冷や水』になる。要するに何事も単純に考えるなという事だ! 簡単に決めつけるな!」と言われました。

だから「求道」にあっては、一つ一つ教えを受けても自分で実行してこれは自分に合うか合わないかなと自分の体に聴けと言われます。また、同じことでも最初は効果があることが続けているうちに効果がなくなり、さらに続けると害になるということもあると教えます。つまり一切が変化しているのであるからその変化の中で物事を考えろと言われるのです。

これは、私は後で気がついたことですが西洋哲学で言う「弁証法」の考え方なのです。