プログラミングの道はあっさり放棄
自衛隊員との天秤にかけて悩み、選んだプログラミングの道でしたが、専門学校で2年間学んだ末に進んだのは、電機メーカーの営業職でした。プログラミングがおもしろくなかったわけではありません。
けれども、私がプログラミングを学んだ時代は、パソコンでできることに限界があって、いまのようにホームページをつくったり、絵を描いたりすることすらできませんでした。そんな状況で、当時もてはやされていたゲームプログラミングなどの道に進むことができるのは、ほんの一握りの人たちだけ。
つまり、職業としてのプログラマーの需要は、まだまだ小さなものだったのです。
専門学校を卒業した平成元年(1989)は、バブル景気のまっただ中。社会全体が働き手を求める、空前の売り手市場でした。私は日本屈指の大手家電メーカーであるNEC(日本電気株式会社)四国支社に20歳で入社しました。当時、パソコンといえばNEC。PC-9800シリーズ、通称98(キュウハチ)が絶大な人気を誇った電機メーカーです。
コンピュータ好きで、プログラマーを目指していた私にとって、98を売る会社が魅力的だったのはいうまでもありません。正直にいえば、専門学校時代に首席を取るほど優秀な成績ではなかった私にとって、まさしくバブルだから入れた大手企業でした。
以後、私はこの会社で13年を過ごすことになります。
街の電気屋さんを回る日々
私が最初に配属になったのは、NECホームエレクトロニクス(日本電気ホームエレクトロニクス株式会社)という、NECの関連会社です。
通信機器の製造販売にはじまり、1960年代にコンピュータの開発などにも乗り出し、名機98を生み出したNECですが、当時は、テレビ、冷蔵庫や洗濯機などいわゆる「白物家電」も製造していました。
そして、総合家電製品メーカーの顔をつくる役割を担っていたのが、NECホームエレクトロニクスです。看板商品である98だけでなく、こうした家電製品の営業に電気屋さんを回り、製品を売り込むのが当時の営業の仕事。
いまでこそ、量販大型店が家電流通の主流となり、街の電気屋さんは少数派ですが、私が社会人になった頃は、ちょっとした街に行けば、まだ五つや六つの電気屋さんがありました。私たちが「地域量販家電店」と呼んでいた大型店は郊外にポツポツとできはじめた頃だったと思います。