6月の初旬(手元に古いパスポートがあれば正確に判るのだがどこにあるか判らない)我々はソビエトの船で横浜からナホトカヘ出発した。横浜の大桟橋へ親が見送りに来てくれた。今と違って当時の我々にとって日本脱出は、やはり不安と希望の重なりあった緊張ある瞬間であった。
出航のテープとカモメの舞う中で私の心は、我々戦後世代の日本人がかの地でどのように受け入れられるだろうかという不安と同時に、かの地で新たな日本の若者がどのような人間であるかを見せてみたいという気概に、満たされていたはずである。
私は自分は元来臆病な性格だと思っていた。結構慎重で心配性な面が多いのだ。しかしその半面、時として何らかの切っ掛けで開き直って、一見無鉄砲なことと思われるようなことをやり始めるところがあった。
今度の渡航に関しても、私としては自分なりにかなり考えた上での行動であると思っていたのだが、両親や姉からすれば、私のそういう無鉄砲な面がまた現れたと思ったかもしれない。今思い返してみても、そういう私の唐突とも思えるだろう行動を、快く許し援助してくれた家族には感謝しかない。
ナホトカへの船旅は、確か2日か3日かかったと思う。結構多くの日本人が同船していて、ヨーロッパヘ向う人々がほとんどだった。その中にアルプスの岩壁に挑もうとする何組かの登山者グループがいた。知らなかったが、当時アルプス諸峰の岩壁の初登攀を競う熱気が日本人クライマーを突き動かしていたらしい。彼らは甲板で揃ってトレーニング姿で体操したりしていた。
寺沢は高校時代山岳部で山に登っていたので、彼らに興味を持って眺めたり、話を聞いたりしていたようだ。その中に1人背広を着て静かに本などを読んでいる人がいた。寺沢がどういうきっかけで彼と話し合うようになったのか判らないが、彼は日本で著名な高田さんというクライマーだと話していた。
話をしてみると彼は小柄で、とても物静かな人であった。確か凍傷で手か足の指を欠いていた気がする。寺沢が、高田さんがどの岸壁に挑むのか知らないがきっと成功するだろう、といっていたのを思い出す。
高田さんがアイガー北壁の日本人初登攀クライマーとなったが、それがパートナーの死という悲劇の中でのことだったのを知ったのは、私が日本に帰って来て大分経ってからのことだった。それを題材として新田次郎が『アイガー北壁・気象遭難』という小説を書いたそうだが、私はそれを読んだことはない。