一九九七年 ナオミ@社員寮
翌朝、鏡を確かめるとクマが消えないうちにニキビが五つもできていた。こーちゃんは私の頬にそっと指さきを載せた。
「雪景色って、人間の痕跡がないと、こんな感じなんだよ」
だからニキビなんて見せたくない。これも言い訳。全然、正しい判断じゃない。よく、わかってる。自分のバカさに気が付いても、正しい行動を取ろうとしない。
四日後、ニキビは化膿した。頭を掻きむしって円形脱毛に気がついた。一人で産科を受診した。お医者さんは言ってくれるはず、検査キットが間違うこともあるんですよ。検査キットは正しかった。アタシの顔は引きつっていたかもしれない。看護師さんがやけに優しかった。時間は止まらず、陽は無情に昇り、沈む。女のお医者さんがいるんなら聞きやすいのに。これも言い訳かなぁ?
翌週、くちびるのヘルペスが巨大になっていた。このくちびる。二人で過ごすうちに少しずつ創られた神経の始まりがある。くちびるから左脇腹を伝い心地よく伸びていった。そのうちに電気が走るようなスピードも。この神経は、まだ、あの創造者を待ってる。あの日々が刹那、とは思ってなかった。ただ、ただ、無心。心の底、文字通り腹の底から幸せだった。
「こーちゃんて、いつも少食なんね」
「僕の食べ物」
長い指が箸をクルっと回す。箸を小さな低いテーブルに置く。その指の向こうにある腕、肩、そして息。ニキビの化膿が乾燥した。どう告げるか考え考え、ナオミは孝一のアパートに向かった。日にちの誤解を解くのがさきだよね? 自分と相談した。
あのね、昔からトツキトオカとか十カ月って言うでしょ、それはお月さまの暦なんだよ。現代のカレンダーじゃないの。最後の生理から四十週後が予定日になるんだって。月じゃなくて、週なんだって。だからね、生理が定期的だと子どもがおなかに入ってる期間は三十八週間。予定日に生まれることは殆どないらしいけどね。九カ月もないんだよ、誤解しないでね。
真っ青な空の西側が徐々にオレンジ色に染まる。こんな夕焼けを見るたびに部活帰りのグラウンドを思い出していた。赤のグラデーションがパープルの濃淡に変わっていった。このおなかの子も部活帰りのグラウンドでそんな階調の夕焼けを見るんだ。
今晩、こーちゃんが何もかも解決してくれる。大丈夫。歩みが軽やかになる。見慣れたドアの前に立った。合鍵を挿そうとしたが入らない。視線を鍵穴からやや上げ、表札が別人になっていることに気がついた。