持ち帰ったオファーの中には建築設計関係もあって、寺沢、岡部と私の3人で夫々行きたい所を話し合いで決めるという、実に不正行為に近いものであった。
寺沢はスイスヘ、岡部はデンマークヘ、そして私はイギリスヘ行くことになった。この制度では実習期間中の給料は保証されるが、その他は自己負担であったから、渡航費用は3人とも親に頼ることになった。それに学生であることが条件であったから、3人とも留年することにした。
当時建築学科において卒業するには、必要学科の取得と卒業論文と卒業設計の提出が必要とされていたので、3人とも卒業論文は提出して卒業設計は未提出にすることとした。だから、年が明けると卒業論文を仕上げるべく精を出したが、それが終ると卒業設計を始めた仲間を手助けすることになった。
3月に同級生は卒業し、大学院へ進んだり、役所や建設会社や設計事務所等々の社会に船出していった。アメリカ行きの内の2人とヨーロッパ行きの3人は留年となった。実は私はこの計画と共に、帰国後の自分の進路についても模索していた。
我々の建築学科の設計課題では、社会で活躍している先輩建築家の何人かが、課題ごとにきて指導に当たってくれていた。4学年後半の時期に指導にきてくれた中に、フランスで長く活躍していて、帰国したばかりの進来簾さんという建築家がいた。
私は進来さんの建築に対する考え方や人柄に強く惹かれるものがあったので、進来さんの下で働かせてもらえないかと頼んだことがあった。進来さんはチョット困った顔で、それはこちらにしてもありがたいことだがまだ日本で事務所を開いておらず、これから準備するのでもう少し時間が掛かりそうだということだった。
私はそこで進めている計画を話し、留年することになるだろうから卒業は1年遅れになるだろうと話した。進来さんはそれならその時までにはもう事務所も始めているはずだから、帰ってきたら一緒にやろうといってくれた。
事情は両方にとって丁度具合がよかったのだ。渡航計画が確定した時進来さんは、できれば帰路パリにも寄ってみたらどうかといって、友人の建築家への紹介状を持たせてくれた。それは私にとって望外の喜びだった。
もしかしたら憧れの地で働けるかもしれない、そう思って胸が躍った。