幸太の邪な思いを射るような鋭い声がした。慌てて立ち上がった。
「はい」
「口座に登録されている印鑑と違います」
「ええ?違いましたか?」
「新しい用紙を出しますので、申し訳ありませんが、もう一度書いて正しい印を押してきてください」
「あーはい、わかりました。超特急で帰ってきます」
幸太のその文言が面白かったのだろう、彼女はクスッと笑った。温かい目だ。
この銀行は市内の中心部にあり、幸太の家からさほど遠くない。信号に引っかからなければ車で五分もかからない。幸太は家に着くなり靴を脱ぎ捨てて、二階へ駆けあがった。その慌てように母が階下から叫んだ。
「幸太、どうしたんねえ?銀行は?」
「印鑑間違えとったあ。もう一回行ってくる」
「はあそう?じゃけどそんなに急がんでもええじゃろ?銀行は逃げやせんけえ」
確かにそうなのだが、幸太には急かされる理由があった。ワクワク、ドキドキなのだ。こんな気持ちになったのは初めてだった。一刻も早く彼女に会いたい。幸太は準備をすると急いで階下に降りた。だが玄関へ向かう前に洗面台の前に立寄り、鏡に映る自分の顔を眺めた。ふん、男前じゃないけど目、鼻、口と大きゅうもなく小そうもなくまとまっとる。個性がないと言えばそうじゃが、睫毛が長うて、子供の頃は皆から可愛いと言われとったなあ。
幸太は無理に笑顔を繕って表情を変えてみた。
「幸太、どうしたん?にやにやして。気色悪っ」
母が廊下で、眼鏡の奥から大きな目を見開いてこちらを見ていた。
「か、母ちゃん、いつからそこへおったんな?」
「さっきからおったわ。何しとるん?にやけて。何かええことでもあったんか?」
「何もありゃせんわ。外出する前の男の身だしなみじゃ」
「ふーん?じゃ早う行ってき、時間がもったいない」
「銀行は逃げやせんて、言うたのは母ちゃんじゃないか」
「仕事休んだんじゃろ?用は早う済ませとき」
「わかっとる。もう言うことがころころ変わるんじゃけえ」
街路に植えられた、赤、白、黄色のバラの花が色鮮やかに咲き、山は緑を濃くし、空は澄み渡って明るい日差しを注いでいる。車の窓ガラスの隙間から、清々しい風が吹いてきて幸太の髪の毛を揺らしている。だが銀行へ向かう幸太は、そんなことよりも先ほどの母とのやり取りを思い出していた。母ちゃんに見られとったとは焦った。しかし気づかんかった。いつもお喋りで賑やかで、どこにおってもわかるのに。