プロローグ 

幸太が野球を始めたきっかけは、小学校へ入学する頃に、父から買ってもらったグローブだった。近くの公園で、父とキャッチボールをしていたことをよく覚えている。

父は一九四五年太平洋戦争の終戦の年に生まれた。正確には終戦日より数カ月前ではあるが、幼い頃の厳しい時代を経験しているためだろう、物を大切にするいわゆる昔気質の人間だ。幸太もそんな父親を見て育った。今でもそのグローブは捨てられずに、押し入れの中にしまっている。

香織も愚痴が多くなった。

「お父ちゃん、あんたの性格をよう知っとるけど言わせてもらうよ。確かにお父ちゃんはチームのキャプテンで、エースで大黒柱よ。お父ちゃんがおらんと勝てんかもしれん。でもチームが勝つことと、お母さんの法事とどっちが大事なの?」

幸太の母菊代は一昨年病死していた。昨年の一周忌法要と野球の決勝戦が重なった時、幸太は野球を選んだのだった。幸太はチームの皆に迷惑をかけたくなかったのだ。頼まれれば断れない幸太の性格を、香織は熟知している。

「ほんまにお父ちゃんは野球馬鹿じゃねえ」

そう言いながらも香織は行かせてくれたのだった。

香織は幸太とふたつ違いの三十七歳である。容姿は華奢で美人だ。美人というのは個々の主観ではあるが、少なくとも幸太は誰よりも美しいと思っている。元銀行員で、十三年前香織とは銀行の窓口で初めて会った。幸太のひと目惚れだった。振り込みの手続きのために、窓口に行った時のことだった。

「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」

幸太は、ハッとした。彼女はにこやかに微笑んでいる。眉は心持ち太く真っ直ぐに、切れ長の目はきりっと意志の強さを思わせ、それでいて二重瞼が温もりを感じさせる。多少上向きの鼻は可愛さを、唇の下の黒子が情熱的だ。幸太は感電したようなしびれを感じた。

「あっ、はい。振り込みをお願いします」

彼女は振り込み用紙と、口座の払い戻し用紙を出した。

「ではここに今日の日付、相手先のお名前と金融機関名及び口座番号、それに金額をお書きください」

幸太は彼女の指示する指先を追っていたが、途中で固まった。

「あの、お客様?」

「きれいじゃ……」

「えっ?」

「ああ、すみません。白くて長い指ですね。きれいですね」

再び口にした。彼女は不意を突かれたようで、魅惑的な唇を半ば開いて頬を赤らめた。自然に出た幸太の思いだったが、初めて会った相手に対する無礼をわびた。

「すみません、ひとり言を言いました。ここはこれでいいですか?」

何とか言われるままに書き終えて、最後に印を押した。

「ではお呼びしますから、あちらでお待ちください」

待っている間、幸太は気になった彼女の方をちらちら見ながら観察した。髪の毛は襟元くらいで耳が出て清潔じゃ。身長は、座っとるけえわからんが華奢な感じじゃ……。

「矢吹様」