部屋のドアが静かに開いた。

純一が首を起こすと、パジャマ姿の里美がバスタオルで髪を拭きながら、石鹼の甘い香りをゆらし入ってきた。

「まだ寝てなかったの?」

「うん。ちょっと寝つけなくて」

「なんかいいことでもあったの?」

「あったような、ないような」

「なによ?」

「ん? たいしたことじゃないから」

「なにそれ。教えてくれてもいいじゃない、ケチ」

教えたところで、信じるわけがない。どうせ相手にされないから教える必要性を感じなかった。

里美は鏡台に向かいアマゾンで購入した「しわを取る魔法のローション」を祈るように顔に塗りはじめた。それを見つめ、女の執念には敬服しつつ、長い髪を後頭部で束ね露出した里美のうなじに、純一は欲情した。

(きれいだ、あんなにきれいだったっけ、うなじ。三十八には見えないよなあ。やっぱり里美さんは素敵だ)

首をもたげそれを見ていると、里美は鏡のなかの純一に言う。

「なに見ているのよ……いやらしい目で」

「失礼な! いやらしい目なんかしてないよ」

「今日は私、疲れたから寝たいの。――なにもしないでよ」

「……」

里美がスキンケアを終えると灯りを消し、ベッドに入ってきた。ベッドのなかはたちまち石鹸と女性の甘い香りに占領されてしまう。そして純一に背を向け横たわり、寝息を立てようとしている。

(なにもしないでと言っても)

純一は自分が興奮してくるのがわかった。そう、興奮の要因は匂い。石鹼の香りに嗅覚が刺激され、それが全身に走り股間を熱くするのには、時間は掛からなかった。

熱い腰を妻のお尻に添わせ、手で腰を覆うように引き寄せた。

「……いや、だめよ」

「いいじゃん、我慢できないよ」

「疲れているの、あっ――」

言葉では拒否しつつも里美は純一に体を預け、純一は里美の体を大事に預かった――。

営みが終わると、二人は仰向けになり、寄り添いながら息を整えようと目をつぶった。純一には、この賢者タイムが至福の時でもあった。

なにをしゃべるでもなく、しばらく無言の時が流れたあと、里美がふと思い出したように言った。

「そうだ、いつも駅の南口に愛嬌のあるホームレスのお婆さんいたでしょ。朝、死んでたって。でも変なの。死体が消えちゃったらしい。そんなバカな話があるわけないわ。きっとデマね」

そう言うと、ブランケットを首元までよせ、裸のまま寝息を立てはじめた。

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