第一章

入院した喘息患者の状態が上向きになったのを確認して、十九時過ぎに職場を出た。すっかり日は沈み、真っ黒な海を月明かりが照らしている。ロングTシャツにトレーナー一枚だと、結構寒い。早く体温を上げなくてはと、クロスバイクにまたがる。

帰路とは若干外れるが、メイン道路を海沿いに五分ほど走り、内陸側へ坂道を少し上がったところに朋子先生の自宅がある。途中のスーパーに寄ってから、向かった。到着した頃には、ちょうどよく体が温まった。

事前に連絡していたので、門をくぐり玄関脇のインターホンを押すと、すぐに応対してくれた。朋子先生はスッピンでエプロンをつけたまま、つっかけを履きながら出てきた。娘の看病が大変だったのか、学生時代から変わらないショートの黒髪が心なしかいつもより乱れている。

「真希! わざわざ、ありがと。今日、忙しかったでしょ。ごめんね」

勢いよく出てきた彼女からは、みりんだか出汁だか、和食のいい匂いが漂ってきて、空腹だった私は食欲をそそられた。

「そうですよぉ。ご褒美、くださいな」

そう言って両手を差し出した。

「ったく。調子に乗るな」

彼女は私の頭に優しくゲンコツする。被っていたキャップが前にずれて、視界が狭まった。

「いてっ。冗談、冗談。なんとかなったから、気にしないで。裕ちゃんは、どう?」

「まだ解熱しないけど、明日はうちの母親が来るから、仕事には行けるよ。心配しないで」

ゲンコツした手で、私のキャップの位置を直して頭をポンポンと撫でてくれた。

「先生がいたら嬉しいけど、無理はしないでね。子供第一、でしょ」

私がそう言って彼女の肩を叩くと、彼女は少し目を細めた。

「最近、真希がしっかりしちゃって変な感じ。あんたはさ、さっきみたいに私をおちょくって楽しんでるくらいが、可愛くていいんだよ。仕事中は別だろうけどさ」

私はつい鼻をこする。

「まぁ、私ももう三十五歳ですからねぇ。そうそう、これ、よかったら」

来る途中にスーパーで買った果物の盛り合わせを渡した。

「ありがとう。こんな気遣いもしてくれるようになったんだ。何かさ、子離れする親の気持ちを既に味わってるかも? 真希で」

肩をすくめて笑う彼女。

「ちょっとー。私、どんだけクソガキだと思われてたの? 普通でしょうよ、こんなの。先生、そんなこと言ってたら、本当にオバサンになっちゃうよ! じゃ、また病院で!」

そそくさとその場を離れようとする私。

「こら! まだ“お姉さん”と言え!」

口調とは対照的に、彼女は口を大きく開けて笑っていた。

ふと明かりが漏れてきた方を見ると、パジャマ姿でおでこに冷却シートを貼った裕ちゃんと彼女を抱っこしたご主人が、窓の向こうから手を振ってくれていた。私も手を振り返しながら、道路に停めたクロスバイクにまたがる。朋子先生はわざわざ道路まで出てきて、私が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

大好きなお姉さんの笑顔が、私の疲れを癒してくれた。