茂にとって住込み働きで中国語を勉強した二年間は脇見をする時間もないほど忙しく余裕のないものであったが不思議なことに少しも苦痛を感じることはなかった。
茂のような地方出身の青年にとっては仕事、学業の別なく都会での生活そのものが刺激的で精神的な張りを与えてくれるもので、毎日の生活はエネルギーに満ちていた。
茂が働いた桜ストアーはこの数年後から徐々に押し寄せた大型スーパーの波に押され、茂が語学院を卒業し、店を離れてから十五年後に閉店を余儀なくされた。後年、茂が従兄を訪ねると、従兄は一階の店舗部分を丸ごと他の食品流通業者に貸し出し、夫婦家族は茂がいた時と変わりなく広い二階で穏やかな生活を続けていた。
茂は東京に出てきて三年目の一九六七年春、語学院を卒業した。
茂は一日も早く学んだ中国語を生かせる会社に就職したいと考えていたが当時はまだ一般の会社での中国語人材の必要性がそれほど高くなく、希望するような就職先をすぐには見つけることができなかった。
そんな折、語学院の高柳事務局長が東京築地にあった中国華僑の経営する小さな貿易会社を紹介してくれ、入社した。
この会社には五十代後半と思われた長身ですらりとした体躯の白髪頭の陳という姓の男性社長、顧問役の肅と称した丸い禿げ頭のでっぷりとした体躯のどじょう髭を生やした初老の男性、それに中年を迎えた山尾という姓の女性が働いていた。
山尾さんは二人のことを陳さん、肅さんと親しく呼んでいた。
二人はいつも中国語で話していたが、何を話していたのか茂にはほとんど分からなかった。
ある時茂は自分の勉強した中国語が二人に通じるのか試したくなり意を決して中国語で話しかけてみたが、陳社長が「なかなかいい発音してるね」と、日本語で言ったきりで、二人は茂の中国語には特に関心を示してくれなかった。
茂は自分の中国語の程度を知らされたような気がした。
陳社長は茂と二人きりの時に流暢な日本語で「山尾さんは肅さんを親しく世話しているのです」と言った。
茂はこの時の陳社長の言っている意味を正確には理解していなかった。山尾さんは茂に肅さんの事を時々自慢げに話した。彼女は「肅さんは嘗て汪精衛の知恵袋をしたほどの人でした」と誇らしげに言った。
茂はただ頷くだけでさしたる反応も示せず、話はそれ以上進展しなかった。
山尾さんは内心茂に呆れ、愛想をつかしていたに違いない。茂は山尾さんと肅さんの関係や中国近現代史に欠かせない汪精衛のことなど何も理解していなかった。
このような感じで、茂は会社の仕事も会社内の人間の事も理解しないまま数か月間社長の使い走りのような仕事をしていたが、茂にとっては先の見えない鬱々とした日々が続いていた。