分限免職撤回を闘う
一九八三(昭和五八)年一二月鹿児島中央局に異動になりました。一九八七年一〇月鹿児島東郵便局の全逓鹿児島東支部書記長(当時)の牟田実さんに分限免職処分(公務員にふさわしくない)が出されました。全逓は本部が取り組まないなか、鹿児島県内の有志として人事院・裁判闘争を闘いました。私の妻も全逓鹿児島東支部組合員でした。当時の県総評加盟労組も協力してくれました。
公務員の争議行為はまず人事院に訴えることが決まりでした。人事院の判決の九〇%以上は労働者に対し救済の判決は出されない状況でした。人事院での公平審査連続四日間に、毎日百人ぐらいが傍聴し、深夜までの反論書作り、審理のやり取りのテープ起こし、食事の準備など仲間が協力し合った闘争でした。
一九九九年四月、人事院は牟田さんの分限免職処分を認める不当判定を出しました。それから裁判闘争を行いました。二〇〇六年の裁判(福岡高裁宮崎支部)では和解取り下げになりました。郵政側も「公務員にふさわしくないとの理由は取り下げる」となりましたが免職の撤回は叶いませんでした。
牟田さんはやさしく面倒見もよく組合員の為に尽くしてくれる人でした。挨拶の時涙を流す人でもありました。私が加世田局に配転後も、鹿児島市内からは遠いため牟田さんの家に度々泊めてもらい、私の部屋まで用意してくれました。
鹿児島中央局でのミーティングの時、私が「内務職の営業は全部時間外でやらされている。小包物販販売は、郵政の収入にはならず、郵政の天下りの下請け業者の収入になる」と指摘したら、課長が「そんなことを言うなら郵便局を辞めなさい」と挑発し、ドアの外には十数人の管理者が待機していたことがありました。抗議させ、職場紊乱罪での免職を仕組んでいたのかとぞっとした思い出があります。
原水爆禁止(原水禁)バッジ着用で処分される
一九九二年八月一日から二二日まで「原水爆禁止世界大会長崎大会」の広報と資金作りの為に制作した原水爆禁止のバッジを職場で制服につけて仕事を行いました。それに対し、当局は「職場での着用はやめなさい」と警告し「被服正常着用義務違反」「職務専念義務違反」とし着用者十人に文書注意処分を行いました。
鹿児島の新聞社は一斉に取り上げ社会問題化しました。結局処分は撤回されませんでした。長崎の原爆資料館で子どもの焼け焦げた遺体を見て、まるで、自分の子どもと同じ年頃なので「自分の子どもがこうなったら」と涙が出た記憶がよみがえり、平和を願い核兵器禁止を願っての行動でした。同じ制服に成績優績者バッジをつけている人には何も言わず、制服に何をつければ処分・不処分、「被服正常着用義務違反」「職務専念義務違反」になるのだろうか? と今でも思っています。