第二章南北朝時代の行遠・高貞
一、南北朝時代のはじまり
楠木正成の死後、後醍醐天皇は、足利尊氏との戦いに敗れた。建武三年(一三三六年)八月に、持明院統の豊仁親王(光明天皇)が即位する。そして後醍醐天皇は、十一月に三種の神器を光明天皇に渡した。
しかし十二月に後醍醐天皇は、吉野へと逃亡した。そして光明天皇に譲った神器は偽物であり、自分こそが正統な天皇であることを主張した。楠木正行は、行遠・高貞兄弟らと共に、天皇のもとに参上した。
ここに朝廷は、光明天皇を載く京都の北朝と、後醍醐天皇が樹立した吉野の南朝とに分裂した。名実共に南北朝時代がはじまったのである。
二、後醍醐天皇の劣勢挽回策
北朝を代表する足利尊氏は、延元三年/暦応元年(一三三八年)八月、光明天皇から征夷大将軍に任じられた。そして室町幕府を開いた。
一方、南朝は、楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら柱石ともいえる人物が相次いで死去したため、かなり弱体化していた。
そこで後醍醐天皇は、勢力の挽回を図る策を講じたのである。そのねらいは、京都奪回は後回しにして全国各地に天皇の皇子や武将たちを派遣し、先ずは地方の勢力基盤を固める作戦である。その挽回策とは、①北畠顕信(顕家の弟)を鎮守府将軍に任じて義良親王と共に奥州へ、②宗良親王と北畠親房を常陸国に、③懐良親王を九州へ、派遣することである。
三、行遠・高貞兄弟と、母との別れ
この挽回策により、楠木一族にも即座に協力するよう要請されたのである。
それは、②の宗良親王(二十七歳)を護衛する役割であった。早速、楠木一族の中で誰を人選するのか、当主・正行の介添え役である大塚惟正を中心に協議した。正行の側近でこの大役を果たせるのは、正行の従兄である行遠・高貞兄弟以外にはいない。ということになった。
しかし彼らの母(正成の姉)は、既に二年前の湊川の戦いで、弟の正成や長男の正遠を失ったばかりであった。その上に二人の息子を手放すのであるから、どんなに辛かったであろう。但し幸いなことに、長男・正遠には遣児がいたので、孫の存在だけがせめてもの救いであったと推察される。
ついに、その日がやってきた。行遠(十六歳前後)、高貞(十四歳前後)兄弟は、楠木一族、郎等に見送られて、今生の別れとなった。覚悟の上での出陣であるが、生きて再び帰ることができる可能性を心に秘めての出陣であったことと思われる。