博樹はただ振り回されているだけである。買い物を済ませた彼女は寄り道もせずにまっすぐアパートへと帰り、ドアを閉めた。カチャリと鍵の閉まる音がした。

博樹はどうすればいいのかわからず、呆然と家に入る彼女を見送った。今回わかったことといえば、おそらく今晩のメニューはすき焼きではないかということだけだった。

「うーん、ピンポーンも変だよな……。よし明日だ! 明日はハッキリ聞いてみよう。あの夜、何があったのか! いやいや、そもそもあの人は誰なんだ?」

目覚まし時計がけたたましく鳴る。時刻は七時。今日だけは目覚めがよかった。枕元の携帯を手に取り、派遣会社に連絡を入れる。

「あの、今日のバイトの件なんですけども……。急に母が病気になりまして……」

「御神さんまたですか」

プツリと電話が切れた。決して生活に余裕があるわけではないのに、バイトをキャンセルするのはある意味死活問題である。

しかし、今の博樹はそれどころではなかった。ここまで自分を突き動かすものは何なのか、まだ博樹自身が気付いていなかった。

ピンストライプのシャツにカラージャケット。久しぶりの革靴。カジュアルながらも清潔感のある服装は、まるでデートにでも行くかのような装いだった。

すでに普段のジャージ姿を見られているはずだったが、多枝子とは初顔合わせの可能性がある。最低限の嗜みという思いでチョイスした。

洗面所の鏡の前で襟を直し、「よし!」と両手で顔を二回たたいた。

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