第一章
卵の殻が割れなくなってしまった。
別に身体的にはこれと言って何の異常もなく、健康そのものである。しかし私の仕事は副料理長なので、卵が割れないのは私にとって深刻極まりない問題になるだろうと思う。
昨日の夕方、実に突然に卵を割ることが不可能になり、ちょうど入ってきたウェイターの斗狩君に、手が痛いと嘘を言って割ってもらった。
今日は土曜日で休日。今朝食の卵で実験してみたが今日もだめだ。殻を割るのに卵をカウンターに打ち付けることができない。卵が何だか自己防衛の気を出していて、そのそこはかとない力を無視できなくなっている。
猫のニャンがニャンニャン言いながら、明るい外から黒い影法師になって入ってきた。
卵以外に他に問題はないのだろうか。餌をやりながら考える。外は新緑が爽やかな五月晴れ。他にも何かできないことが起きてるのかしらと、不安になってくる。
心細さも手伝って、4年来の恋人の雄二に電話して会うことにした。最近は恋人よりは友人に近い彼は、築地魚河岸で魚をさばいてる魚臭い男だ。
4年前、魚河岸にマグロをさばく研修に行ったとき出会い、彼はそれからおよそ半年もしてからレストランにご飯を食べに来た。箸しか日常に使ってない人であることは一目でわかった。魚料理が食べたいと言ったので、マグロのカルパッチョを前菜に、メインを鯵のフライにしてみた。
ああ、あのパン粉だって、卵が割れないと付けることは無理なんだわ、と悲しくなる。
敷島雄二君はご両親と妹の舞ちゃんと東京の月島に住んでいる、今年30歳。私の名前は白井モレッティエリ、35歳。私はイタリア系アメリカ人と日本人の混血である。
私達は、肉体関係はある。あれは3年くらい前だったかしら。二人でハシゴをして、私が気持ちが悪くなった夜だった。雄二がタクシーで送ってくれて泊まっていった。翌日はお互い休みで、昼近くまで寝ていた。昼下がりの明るい陽が眩しくて、何か無性に30過ぎの私が恨めしかった。
雄二はあっさりした無口な男性で、本は読まない。漫画も読まない。好きなことは山登り。スポーツ観戦も好きだ。浅黒い肌でハチマキの上に垂れる髪が何処となく粋だと思うが、魚臭いのがたまに傷だ。実家は漁師で、お父さんはポンポン船で今でも東京湾に出て行く。兄弟は姉と妹と雄二の3人。お母さんは浮き沈みの激しい漁師稼業が嫌いで、街の銀行に勤めている。
昔は雄二もお父さんに頼まれて漁に出ることもあったが、今は築地で魚をさばいて生計を立てている。お父さんはひいおじいさんの代からの漁師で、旬の魚やアナゴを捕まえる名人だ。