不都合な真実
以上のように、昭和大修理によって得られた木材の伐採年次、五重塔の心柱の腐朽、側柱の風蝕などの科学的知見は、天智紀の伝える天智天皇九年(六七〇)四月三十日夜半の法隆寺大火災が、現実にはあり得ないものであることを示しています。
特に、木材の伐採年次のデータは天智紀の法隆寺大火災が誤りであることを明確に示しています。当然、これらの科学的知見から導かれる結論は、天智紀が伝える法隆寺大火災は誤りであるということになるはずです。
ところが、これほど科学的で客観的な知見が出揃っているにもかかわらず、法隆寺大火災を伝える天智紀の記述を正面から否定する研究者はこれまでのところ見当たりません。なぜ、天智紀の記述は誤りであると、研究者は声を上げないのでしょうか。不思議なことですが、その背後には残念な事情があるのかもしれません。
これまでの古代史研究は、全面的に『日本書紀』に頼ってきました。そのような事情を知りながら、『日本書紀』の中でも特に派手な天智紀の法隆寺大火災記事を否定するとなれば、それは『日本書紀』そのものを否定することと同じ意味を持つ危険があります。また、『日本書紀』を否定することになれば、それは古代史研究を根底から否定することにもなりかねません。
そのような事情から、どれだけ科学的な裏付けがあっても、古代史の研究者は天智紀の法隆寺大火災記事が誤りであると主張するわけにはいかないのです。いわば、『日本書紀』の権威によって不都合な真実から目を背けざるを得ないのです。
しかし、信頼できる科学的知見から目を逸そらし、『日本書紀』の記述に固執するとはどういうことでしょうか。科学的知見を無視できるほど、『日本書紀』の信頼性は確認されているのでしょうか。科学の恩恵で成り立っている現代社会において、まずは十分に確認された科学的手法や科学的知見を信頼すべきであり、もし科学的知見によって文献史料が否定されるとするならば、なぜ文献史料に怪しい記事が載っているのかと、疑ってみようとしないのでしょうか。