第三章 芝居に潜む謎
『兼好法師物見車』
元禄から宝永年間にかけて、巷では長編軍記『太平記』が読み物として流行し、最盛期には街角に『太平記』を読み聞かせる太平記読みを業とする者が現れるほどであった。一方で、芝居には世間で評判の出来事をいち早く取り入れるのが常套手段であったことから、近松が世間で流行していた『太平記』を芝居に取り入れようとしたことはごく自然であり、浄瑠璃作者の発想としては必然であったとも言える。
元禄十六年(一七〇三)正月に京都早雲長太夫座で上演された近松作『傾城三の車』(歌舞伎)に仇討ちの場面があるが、上演時期が赤穂浪士の討入りからは早過ぎることから、直接的な関連はないとされているが、近松は早くから赤穂浪士に注目していた可能性がある。近松は『太平記』を作品に取り入れるべく、塩冶判官と高師直との軋轢について記した第二十一『塩冶判官讒死事』を題材にした作品の執筆に取りかかる。やがて完成したのが『兼好法師物見車』(上・中)とその続編で完結編となる『碁盤太平記』である。
両作品は本来一対の作品であり、当時の資料によると『碁盤太平記』の予告に『兼好法師物見車』跡追(あとおい)とあることから、『碁盤太平記』が『兼好法師物見車』の下段に相当する完結編であったことは間違いない。ところが、『兼好法師物見車』では『太平記』の世界を踏襲しているにもかかわらず、『碁盤太平記』では舞台が元禄赤穂事件にすり替っている。しかも、完結編である作品を『兼好法師物見車』(下)とはせず、敢えて題名を『碁盤太平記』に変更したのかについては謎が残る。
気になるのは、題名を変えたことによる作品自体の連続性であるが、少なくとも主役級に限っては先行作品の『兼好法師物見車』をそのまま踏襲して『碁盤太平記』に登場させていることから、両作品の連続性は担保されているものの、内容が太平記の物語であったはずが一変して赤穂浅野家改易後の元禄赤穂事件へとすり替わっていることから、『碁盤太平記』が『兼好法師物見車』の跡追として宣伝されたものの、両作品は客観的に見て別物であると言わざるをえない。
題名の変更と内容のすり替えの謎
『碁盤太平記』を『兼好法師物見車』の跡追としつつ何故内容をすり替えたのかについては、今日においても謎のままである。考えられることは、本来『碁盤太平記』を赤穂浪士の仇討ち劇として単独の作品として上演する予定であったが、依然リスクが高いと判断したのか、全く関連性を持たない『兼好法師物見車』と連結させ、登場人物の共通性から両作品を一体の作品であるかのように見せかけて、全体を通しては『太平記』を題材にした作品であることを強調しつつ仇討ちの演出をカモフラージュしたかったのではないかと考えられる。
近松によるこの苦肉の策は、依然元禄赤穂事件に関連した芝居が公儀によって解禁になっていなかった証しであり、公儀からのお咎めに対する最大限の対応を施した結果であるとも言える。近松は何故『碁盤太平記』を『兼好法師物見車』(下)としなかったのかについては、それを証明する史料が無いことから具体的な理由を上げて立証することは出来ないが、そこに特別な理由が存在していたことだけは間違いあるまい。
もしも、近松または竹田出雲が公儀からのお咎めを想定していたのであれば、逆に『碁盤太平記』の内容をそのままに題名は『兼好法師物見車』(下)としたほうが良かったようにも思えるのだが、この件については、これまで言及された形跡はなく依然謎のままである。結果的には両作品が、それほど話題にならず特筆すべきではなかったことからか、専門分野においても『碁盤太平記』が『兼好法師物見車』跡追であるとする表面的な認定に止まり、これまで内容および外題の不連続性についての謎に迫ることなく看過されてきたものと考える。