ただ、思春期を迎えた娘にどう接してよいのかわからず戸惑っていました。というのも、中学生のとき、あれほど日々の出来事を嬉しそうに語ってくれた瑠衣が、一転して寡黙になったからです。高校一年の夏ごろ、「お父さん、定期演奏会に来ないで」と言われ本当に悲しくなり、お母さんにも伝えず二階席の一番後ろで聴いていました。定期演奏会が終わるやいなや、瑠衣に見つからないよう逃げるようにしてコンサートホールを出ました。家に帰っても一切定期演奏会のことには触れず、お母さんにも黙ってました。
帰宅した瑠衣は、「ああ疲れた。今日の定期演奏会最悪だったわ」と言い制服を着替えるため階段を登りながら、「お父さん、今日ありがとう」と言って自分の部屋に向かいました。お父さんは見つかるはずがないとたかをくくってましたが、「失敗した」と落胆したものの心の中では嬉しくて仕方がありませんでした。
着替えを済ませて降りてきた瑠衣は、「来年の定期演奏会、井上隆先生が指揮してくださることが決まったわよ」と興奮していました。お父さんも、テレビのコンサートアワーの番組によく出演されている井上隆先生が、瑠衣の学校の定期演奏会で指揮を振られるなんて予想もしてませんでした。
すると瑠衣は、「来年の定期演奏会。お父さん、お母さん、一緒に聴きに来てね」とにこやかな顔で話してくれました。一年先にもかかわらず、「どんなことがあっても、必ずその日は都合付けるから……」とお父さんとお母さんは大喜びでした。瑠衣が二年生になるのが待ち遠しく、お父さんは仕事に精を出しました。
瑠衣は、井上先生が指揮を振られると決まってからの行動は、異常なくらいだったの気づいてましたか。井上先生のCDを買ってきては夜遅くまで片っ端から聴いていましたね。定期演奏会の曲目に決まっていたバッハの「トッカータとフーガ」、ワグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲」のCDのみならず縮小版のフルスコアまで手に入れ、赤鉛筆で書き込みしている瑠衣の真剣な眼差しには鬼気迫るものがありました。わが娘ながら、いずれ指揮者として、世に羽ばたくのではないかと期待しました。