一四時半を過ぎ何とか無事、吹雪を起こすことなくサイン会を始めることができた。ここまで来たらひとまず安心である。サイン会の際中に南雲さんが上の階へ行く可能性はない。つまりハレンチに出くわすことがないのだ。サイン会は一時間ほどで終わる予定であり、あとは速やかに帰るだけだ。風太は南雲さんの座る姿を脇で眺めつつ、胸を撫で下ろした。
たくさんのファンが集まったこともあり、南雲さんも気分が良さそうで何よりだ。彼女の気分が良いとその綺麗な輪郭がさらに透き通るような美しさを見せ、風太の気分をも良くさせる。
これはとても良いシステムだ。大学時代、我らがサークル「極悪研究会」ではこれを「南雲システム」と名付け、皆してそのシステムに入り込もうとオシクラマンジュウが如く部室に入り浸ったのだ。懐かしい、もうあれから何年経っただろうかと風太は思った。
この「南雲システム」は幼子も魅了するようであり、幼稚園児くらいの男の子が父親と共にサインを求めていた。しかし男の子が手に持つのは南雲さんの書いた小説ではなく、お気に入りなのであろう恐竜の絵本であった。しかし南雲さんは喜んで男の子にサインする。彼女はできた人間だ。風太は微笑ましくその様子を見ていた。
サイン会が終盤に差し掛かった頃、廊下が何やら騒がしいことに風太は気づいた。会社の人間が右往左往し、時には大きめな声で誰かを呼ぶようなこともあった。風太はサイン会の部屋のドアから顔だけを外に出し、どうしたのだろうか? と廊下の様子を見る。
すると編集長があれこれと手を焼いている姿が目に入ったのである。風太が頭を掻いている編集長を見ていると、向こうも風太に気がついたようだ。編集長が風太に近寄って来て耳打ちをした。
「今日来たグラビアアイドルの一人が極度のアガリ症らしくてな。水着になった直後、過呼吸状態になったんだよ」
それを聞いて風太は口をポカンと開けた。
「水着になると過呼吸になるって、そんな馬鹿なグラビアアイドルいるのですか?」
職業選択の不適性さが甚だしい。少し自問自答すれば、すぐさま「水着写真なんてハズカシ過ギ。アイ・キャント・グラビーア!」となりそうなものである。
「俺だって馬鹿な話だと思っているさ。しかし実際に過呼吸なのだから仕方がない。今、担架で二階にある休憩室に連れて行くところだ」
それでな、と編集長は付け加える。
「サイン会の方の人員を数人、グラビア撮影の方に回すことになる。お前、しっかりやれよ」
編集長はいかにも他人事であるかのようにそう言うと、足早に上の階へ上って行った。
なぬ? と風太は困った。元からサイン会に割かれた人員は三人程度だ。これからさらに減らすとなると、関係者は南雲さんを除き風太一人になるのではないか? 会社側としてもそれはいささか不安である。
しかし風太の予想は見事に的中し、客の整列から退場の誘導、落し物の管理まで風太が一人で担うことになった。だが助かったことにサイン会は終盤であり、ファンも引き始めていたので手が回らなくなることはなかった。