第一章 伊都国と日向神話
3.「秦王国」から南九州に移住する秦の民
さて、この「秦王国」のことである。意味は「秦王」の「国」であり、中国人裴世清の立場で記録された「秦王国」である。秦氏がその出自を秦王の末裔と自称しているので、その情報が伝わったものと思われる。『新撰姓氏録』「諸蕃」に載る秦氏の出自は、以下のようになっている。
出自秦始皇帝三世孫孝武王也
秦の始皇帝三世孫にあたる孝武王から出た氏族であるから、秦王の国といっても間違いではない。しかし自信をもってそう主張するには、秦王の末裔である秦氏一族が、人口の多くを占めていなくてはならない。
「秦王国」の住民構成については、先人の研究がある。豊前国北部の戸籍(大宝二年)のうち、「上三毛郡塔里・上三毛郡加目久也里・仲津郡丁里」の分が残っており、その成果を活用させていただくと、秦氏一族が圧倒的に多い。上記戸籍の合計人数を分母に、人口構成比を算出すると、まさにそこは「秦氏」の「王国」であった。
秦氏一族に属する姓である「秦部」329人と「勝」249人の合計=578人。その他姓=105人。秦氏一族の構成比は、約85%である。
578/(578+105)=84.6%
因みに「秦部」とは、秦氏の部曲(かきべ)である。部曲は豪族の私有民のことであり、集団としてその豪族に隷属していた。
豊前国の「勝(すぐり)」姓は、「秦部」と同じ郡の戸籍に記載されているので、秦氏に属していたと考えて間違いない。秦氏が多くの「勝」姓を率いていた証拠が、雄略紀十五年の記事にある。各地に分散・使役させられる「秦の民」を、族長「秦造酒(はたのみやつこさけ)」のリーダーシップに委ねる措置が、雄略の詔として出された。
(雄略天皇は)詔(みことのり)して秦の民を聚(と)りて、秦酒公(はたのさけのきみ)に賜(たま)ふ。公(きみ)、仍(よ)りて百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を領率(ひき)ゐて、庸調(ちからつき)の絹縑(きぬかとり)を奉献(たてまつ)りて、朝庭(みかど)に充積(つ)む。因(よ)りて姓(かばね)を賜ひて禹豆麻佐(うつまさ)と曰(い)ふ。
臣や連に分置された「秦の民」を、彼らから引き離して集め、雄略はこれを秦酒公に与えた。公は賜った百八十種の「勝」を率いて多くの絹製品を作り、それを朝廷にうず高く積んで奉った。
これにより秦酒公は、「禹豆麻佐(うつまさ)」の姓を賜わったのである。うず高く積んだから「うづまさ」というのは、どこかこじつけの感がある。ユダヤ系秦氏への賜姓なら、それらしい理由がなくてはならない。
「UDU」がユダヤを意味することは、もう繰り返し述べてきた。ヘブライ語でメシアは、「油を注がれた者」の意である。「油を注がれて聖別された王」のことである。UDU-MASAとは、「ユダヤのメシア=ユダヤの王」を名乗ってもよいというお墨付きなのである。これは著者の理解であるから、多分、一般受けはしないと思われるが。