ALS
病室には専用のキャッシュカードで使用できるテレビがあった。枕元のすぐ横の収納箪笥に組み込まれている。寝返りも首を動かすこともできない京子には、無用のものだった。だがこの病院では、許可制によりテレビの持ち込みが許されていることを知った。
私は、さっそく申請書を提出して、数日後には京子の足元のベッドテーブルに、画面が高くなるアームをセットして、自前のテレビを持ち込んだ。視界が天井だけという事態は回避できたが、自宅介護を取りやめた申し訳なさで一杯だった。
妻の顔を見ていると、私は心の自由を失ったように暗澹たる思いに引き込まれそうになる。それを打破しようと、以前から京子と約束していたことを実行していた。
数日前から何度も話そうと思っていながらも、実際に話そうとすると、あまりにも小さなことで気が引けてしまっていた。
「いい話があるよ。今日は感謝返しを一つしてきたよ」
喉の刺激でむせ込んだ後の息苦しさから抜け出したように、京子の目に光が射しこみ、話の先をうながされた。恩返しというには、大げさすぎるので、私は感謝返しと言った。
「病院に来る途中に、対向車で数珠繋ぎになった先頭の右折車を、手で合図して、行かせてあげた。誰も止まらないんだ。直進する後ろの車の列が思いっきりつかえているのに。気持ちがスカッとするぐらい流れて行った。話はこれだけなんだけどね」
京子はそれでも深い瞬きを何度もして喜んでくれた。口パクで「アリガトウ」と言ったあと、再度「ア・リ・ガ・ト・ウ」と、今度はゆっくりと一字一字、区切りながら口パクをした。私は感激して頷いて、「まだあるよ」と言ってしまった。言った後で、それこそ気が重くなった。
「ナニ?」
「それが、犬の散歩をさせていたら、ミミズが一杯、這い出ていた」