【前回の記事を読む】「結婚しよう」二度目のデートで電撃プロポーズをされたワケ
十三、克裕、第三の試練
愛し合っている二人の結婚生活は、毎日がキラキラと輝いていた。料理好きの私と、酒好きの夫。お店の営業を終えて帰宅すると、美味しい酒の肴を作り、二人で晩酌。「かんぱーい」である。克裕はきれい好きでフットワークが軽いので、壊れたところがあると、すぐに修理してくれる。力仕事もすべてやってくれる。
年に数回、旅行に連れて行ってくれる。「プレゼントは、男がするもの」と誕生日以外にも時々、プレゼントをくれる。そして、二人とも、人と接することが大好きで、お店に御来店されるお客様とは、みんなお友達感覚でお話しする。
克裕の言ってくれた言葉で、一番うれしかった言葉は、「あなたの大切なものは、私の大切なもの」という言葉で、それ以来私の娘や息子、父や母までも、ずっと大切にしてもらっている。
また、克裕は大変親孝行な人で、当時もう引退をしていた義父と義母が、毎月のように車で一時間ほどの温泉宿へ四、五日宿泊に行く時の送迎をしてあげたり、義父が先に亡くなってからは、義母と叔母と私を車に乗せ那須のペンションに何度も連れて行ってくれた。
二〇一一年東日本大震災の年から、義母が糖尿病と認知症になり、私は食事の管理と身の周りのお世話と一日三回のインシュリンの注射を四年間続けた。しかし、その義母も自宅で亡くなり、私たちは二人暮らしになった。世界がコロナ騒動になるまで年に一、二度は海外旅行に連れて行ってくれた。
克裕はよく、「大学まで出してもらって、一宿一飯の恩義は決して忘れない」と言っていた。私も女二人姉妹の長女だったので、最初の結婚をした時から、両親が年をとってきたら私がお世話をするつもりだと言ってきた。ただ私が離婚をした時は、逆に両親が心配して、三重県の松阪の家を売り払って、仙台の地へ移り住んでくれた。そして、仙台の電波高専に通う私の息子を下宿させてくれて、私の方が大変お世話になったのだった。
克裕は、その私の両親を克裕が建てた角田の家に呼びよせてくれた。お互いの両親四人と私たちの誕生日には、年に六回私がケーキを作り、ごちそうを準備して六人で集まりお誕生日パーティーをしていた。私の父も角田に来て、十年前に認知症を発症して車の免許を返納してからは、月二回の病院通いや、週二回の買い物に毎回克裕が私といっしょに父と母を連れ出してくれた。
今は、父が亡くなり母一人になったので、週二回の買い物に連れ出す以外に週に二日私たち夫婦で母の住む家に泊まりに行っている。私の娘や息子も、複雑な家庭環境の中、一生懸命勉強し、娘はアメリカ留学の語学力を活かし、大学の秘書の仕事につき結婚。息子は電波高専から大学に編入し、プレステーションの会社を経て株式会社ネクソンへ。今は結婚して、私の初孫を見せてくれた。