五重塔側柱の風蝕
昭和大修理に参加した建築学者の浅野清氏は、法隆寺五重塔の解体修理の過程で驚くべき発見をしました。その状況が、『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究』(中央公論美術出版)に掲載されていますので、該当部分を引用してご紹介します。なお、ここに登場する風蝕とは木材が長い年月、日光や風雨に晒さらされて表層部が痩せたり強度を失った状態になることを指しています。
「(五重塔の)壁をことごとく除去して初層柱の面も全部見えるようになり、ここでまた一つ不可解な問題に直面した。それはこれら塔の側柱が壁の取り付いた面も、戸口部材の咬んでいた面も相当風蝕していることであった。特に戸口部材取り付けに際して、つかえて納まらない部分のみを鐁や釿で削ってあったが、その面のみは全然風蝕を受けていなかったのである。
戸口改造の痕跡は全く認められないし、これらはどうしても立柱後、時を経て造作にかかったと考えるほかに道はなく、そう理解して、初めて造作取付けに際して削った面のみが風蝕をまぬがれた理由がわかる。また、天井板や天井組子を取り付けていた釘が裳階の釘と同じ巻頭の形式で、他の部分が角頭釘であったのと全く相違していたことなどを考えると、やはり造作にかかるまで相当長年月、放置されていたことを思わせた。
これは塔の造立年次にも関連する重要な問題でもあるが、このようにして壁や天井の造られない前に、まず仏壇や龕ができ始め、その間に相当の年月を経過し、さて再着手となって、塑像の計画が持ち上がり、たまたま檫下の腐朽に気がついて、その対策をたてることとなり、仏壇や龕をいったん破棄のうえ、新しく改造することとなったのではなかろうか。こうして、引き続き壁や天井が造られたと考えることはできないであろうか。
その場合、放置されていた年数は檫の腐朽のきざしを見せ始めるまでの年数であり、柱の風蝕があれほどに生じるまでの年数でなくてはならず、少なくとも数十年の年月をみなければならないこととなろう。したがって、もしこの考察に誤りがなければ、塔の建立着手は塑像の造られたという和銅四年(七一一)をさかのぼること少なくとも数十年くらいをみなければならないこととなろう(傍点、ふりがな筆者)」
昭和大修理に参加した浅野氏は建物を慎重に解体していく過程で部材を詳細に観察し、五重塔の初層の側柱にひどい風蝕を発見しました。
そして、風蝕の状態や用いられている釘の違い、心柱の補修の状況などから側柱の風蝕の原因について分析し、五重塔の心柱(檫)や側柱までが建った後、壁や天井などの造作が始まる前の段階で工事が一旦中断され、その後工事が再開されるまでに少なくとも数十年の放置期間があったと推理しています。