3 噴出し始めた英語教育への不満
学校英語教育の歴史は、始まったばかりの明治の頃から、その時代を反映して起こった英語ブームと、その反動として発せられた英語教育無用論の繰り返しでした。次に示す表1は、英語教育に関わる主な出来事を年代順に並べたものです。
改革・推進しようとするものには薄い色を、英語教育を抑制しようとするものには濃い色をかけてあります。細かいいきさつまで拾うことはできませんでしたが、明治から平成までの英語教育の趨勢を多少なりとも感じていただけるのではないかと思います。
以下、本節では明治・大正期、次節では昭和以降を舞台に、それぞれの時代で起こった動きを紹介しながら、英語教育を推進しようとする流れと、抑制しようとする流れの攻防を辿っていくことにします。
森有礼の「英語国語化論」
以下の文章は、学制が公布されて旧制中学校で英語の授業が始まった翌年、一橋大学の創設者として、また初代文部大臣としても知られる森有礼が、いっそのこと英語を日本の国語にしてしまってはどうかと主張した、「英語国語化論」の顛末について触れられた部分を『日本の英語教育200年』から抜粋したものです。
明治5年(1872)、時の駐米代理公使森有礼(1847-89)は日本語廃止・英語国語化論を唱えて、アメリカの言語学者にたしなめられた、ということになっている。〈中略〉当時世間が誤解したように「不完全な日本語では文明開化は無理だから、いっそ英語を日本の国語にしてしまおう」という主張だとすると、これは21世紀日本の英語公用語化論と似ている。〈中略〉
モルレーの「国語を保存するは国民性を保存する所以なり」という見解によって否定され、漢字語を増やすことによって日本語を鍛え直そうという努力のほうが強く働いた。その結果、日本語は西洋文明を翻訳するに耐える言語として今日まで成長してきたのである。
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店 2003年刊/263頁より)
森有礼がおこなったこの主張は、いわゆる「国語外国語化論」と呼ばれるものですが、この種の論を唱えた人物は他にもいて、有名なのは、終戦直後にやはり英語を国語にせよと言った尾崎行雄、フランス語にせよと言った志賀直哉等が挙げられます。
また、引用文の最後に触れられた「英語公用語化論」とは、1999(平成11)年に当時首相だった小渕恵三の私的諮問機関である「『21世紀日本の構想』懇談会」が「21世紀日本の構想」の中で示した、英語を日本の第2公用語とする言語計画であり、「英語の第二公用語化」と呼ばれて話題になりました。
しかし日本独自の文化や歴史、日本人としてのアイデンティティが失われるのではないかと懸念する声が多く、こうした慎重論は、英語が小学校で必修化された昨今も根強く残っています。
外国の文化を取り入れようとする動きの後には、反動として、自国の文化を守ろうとする動きが出現し、井上ひさしが『國語元年』で描いたような、方言などを統一して全国的に「共通口語」を制定しようという動きが活発になりました。