一
一九六四年十月十日。東京五輪の開会式が行われた国立競技場に、裸の中年男が闖入したことはあまり知られていない。男は開会式のクライマックス、聖火の最終ランナーが競技場に姿を現そうとするまさにその直前、観客席から飛び降りた。そうして、たった一枚身に着けていた真っ赤な褌の紐をさっとほどき、丸裸で走り出したのである。トーチに見立てたのだろうか、丸めた新聞紙を高く掲げていた。
警備員ら大会スタッフが慌てて男を追いかけた。グラウンドを十五メートルほど走ったところで逃げ回る男を捕まえ、日の丸の旗で体を丸ごとくるんで場外へ連れ出した。男がストリーキングを行ったのは、聖火入場の前に行われた風船セレモニーのときだった。青・黄・黒・緑・赤の五輪カラーに彩られた何百、何千もの風船が放たれ、選手も観客も一斉に秋晴れの空を見上げていた。そのため、幸か不幸か、トラック内での珍事に気づく者はほとんどいなかった。
新聞やテレビのカメラも風船セレモニーに焦点を当てていたため、記録に残ることはなかった。ただ後日、観客の一人が写したというピンボケ写真を提供されたある週刊誌が、『性火ランナー現る!』の見出しで、小さく報じただけだった。わたしが生まれるずっと前の出来事だ。
「実はね、そのときの男の人が、同じ県内にいるのよ」
ギャラリーのオーナー、中条さくらさんが打ち明け話のように、そっと告げた。
「現代アートの芸術家なの。身体を使ったパフォーマンスをやったり、ちょっと変わったオブジェを発表したり。ただ、世間からはなかなか受け入れられなくて、今は世捨て人みたいな暮らしをしている。いわば、伝説の仙人っていうところね」
さくらさんはこう話した上で、その人に会ってきて欲しいという。そこである夏の日の午後、電車に乗って男の人の自宅を訪ねた。さくらさんが言うには、この春に百歳を迎えた独居老人だという。百歳かぁ。ずいぶんご高齢だわね。一体、どんな人物かな? ちょっと興味をそそられる。
「伝説の仙人」というからには、山の奥深くにある洞穴のような棲み家で、ひっそりと隠遁生活を送っているのかしら。なんて、初めは想像していたけれども、実際には全く違っていた。お目当ての家は、ローカル鉄道の駅から、歩いて二、三分のところにあった。しごく便利な場所である。
家の周囲を見回してみても、どこの市や町にでもあるようなありふれた住宅地だ。近くにはスーパーもあれば、コンビニも、靴の量販店もある。パチンコ店さえあった。駅前は再開発地域なのか、工事用のトラックがひっきりなしに通っている。「グイーン、グイーン」という重機の唸り声が耳障りだわ。