午後五時。外はもうすっかり暗い。愛結香は午後四時で退勤するので、事務室には真弓のほかに二名の社員がいるだけだった。階段を駆け上ってくる音がして勢いよくドアが開いた。
「佐々木さん、ごめん! 事務所閉めるの頼める? うちのバカ息子の塾から呼び出されちゃったんだよ」
青木主任が眉毛を八の字にして言った。主任の息子さんは高校生だ。大学受験のために親御さんも必死なのだ。
「いいですよ」
真弓が答えると、主任は両手を顔の前で合わせた。
「ごめんねー。塾だよ? 塾の先生にも呼び出されるってどうなのよ?」
主任はコートを羽織りながらうなだれた。学校からも呼び出されているのだろうか。
「学校からも呼び出されたんですか?」
誰かが言った。あえて口に出さなかったのに……と真弓は思った。
主任は八の字眉で無言のままコクンコクンとうなずいた。慌ただしく主任が退勤し、ほかの社員も続いた。真弓は軽くため息をついてデスク周りを片付けた。火元などを確認して、事務所の電話をアナウンスに切り替え消灯した。午後六時だった。
配送事務所に一声かけて真弓は屋外へ出た。吐く息が白い。ストールを顔の半分まで巻いて薄暗い構内を、肩をすぼめて歩き出した。
「あの、佐々木マユミさん!」
突然、背後から男性の声がした。
「ひっ……へ?」
本当に驚いたので思わず変な返事をしてしまった。体をこわばらせてふり返ると、外灯の薄明かりの下にあの迷惑ドライバーが立っていた。あんたかよ。まったくこのひとは……。真弓は膝の力が抜けそうになった。
「あ、あなた……えーと……」
少し動揺している真弓に迷惑ドライバーはつかつかと近づいてきた。
「今朝はありがとうございました。津田といいます」
「……ああ、津田さん……」
どうして私の名前を知っているんだろう。ドライバーさんたちとは挨拶をするくらいなのに。それに暗がりで背後からフルネームで呼ぶなよ。真弓はどっと疲れを感じた。
「驚かせてすみません。どうしてもお礼を言いたかったので」
朝に比べたらだいぶ落ち着いた声だった。今朝はよほど焦っていたのだろうと真弓は思った。
「お礼なんて……別にいいのに」
真弓も落ち着きを取り戻した。津田はキャップを脱ぎながら続けた。
「いいえ。僕、今朝は急に仕事が倍になってすごく焦っていたんです。行ったことのない店舗にも行かなきゃならなくて。佐々木さんに声かけてもらって正気に戻った感じだったので。ほんと情けないんですけど」
真弓は改めて津田をちゃんと見た。少し緊張して、しかしまっすぐに真弓の目を見て話す津田は、裏表がなさそうだ。いいひとなのかもしれない。それによく見ると顔立ちもすっきりしている。
なんだ、かっこいいんじゃないの。真弓はなんだか拍子抜けした。