あの空の彼方に
あの空の彼方には生きとし生けるもの全てが行くことの出来る、何ものにも束縛されない自由でピュアな世界があります。
真の神が存在する愛に満ちた世界が。人口九百万人を擁する主都である大都市から海沿いを走る鉄道で一時間、隣県の都市の外れにその町はあります。
昔は辺境の地であった此所は、江戸時代より海の眺めが風光明媚な地として知られ、今も海浜公園などには、汐干狩の季節に限らず多くの人が訪れます。
近年、駅前の再開発が進み、廃れゆく他の地域を尻目に、人口が増え続けている人気の町です。海から駅までは車で十分程で、その駅前からは徒歩数分で国道に出ます。古くから通る片側二車線の、交通量の多い幹線道路です。
駅近くのその道路沿いに、村上内科クリニックはあります。このクリニックの土地の所有者である村上家は、代々続く地主の家で、現在二千坪の土地を持ち、併せて先代から相続した家は土地の奥まった所にあり、村上医師と家族が居住しています。何代か前までは、そこから見渡す限り村上家の地所であったそうです。
この地域としては多くの樹木の中に建つ、その家は、築四十年以上を経た洋風の五LDKの建物で、一階に八畳大の台所、隣に同じ位の広さの居間が、他に六畳の和室二部屋などなどがあり、二階に八畳大の洋間二部屋と六畳の和室があります。この家が特別に大きいとはいえなくても、周囲に隙間なく建つ今風の家々がこぢんまりとして見えます。
この家と少し離れた、建坪八十五の平屋の診療所に、三十坪程の駐車場が併設された、一般内科のクリニックです。村上家は村上優一医師の妻である
玲子さんの実家で、先代である玲子さんの父親の稔さんは、もの静かな、あまり目立つところのない人でしたが、妻である、玲子さんの母親の幸子さんは、夫の稔さんが別荘が欲しい、と言って隣県の別荘地に土地を購入した時に、自分で間取り図を描いて、大工の棟梁に渡し、それによって設計士が図面を引いた、という通常とは異なる工程を経て着工した別荘を建てた人だそうです。
しかしその母親は別荘を建てて間もなく、玲子さんが中学校を卒業する頃に、病で亡くなったのでした。優一さんと家庭を持つまでは、その広い家に父親の稔さんと、親一人子一人の生活を送っていたのでした。
父娘二人の暮らしの中で、玲子さんは、自分が一人っ子であることで、この家をしっかりと継いでいかなければならない、という自覚があるようでした。
優一さんは隣の主都である大都市の医大を出て、この県の大規模な私立病院の研修生を経て、勤務医になりました。勤務医であった三十歳の時に、人を通して、六歳下の玲子さんと知り合い、恋愛を経て、この村上家の婿となりました。先代と玲子さん、優一さん夫婦で同居し、翌年に、先代にとって孫となる透君が誕生しました。
ですが、この先代も透君の一歳の誕生日を前にして、急な病で亡くなったのでした。故に、孫の透君は母方の祖父母の顔を知らないのでした。この透君は、後に家庭教師となる私の教え子でもあります。優一さんはその後、三十五歳の時にクリニックを開業し、以来十五年が経ちます。私は同じ町の、世界的にも有名な自動車メーカーに勤めていた父と、父と同じ大学の同期生であった母との間の一人娘です。
私はアカデミックという程ではありませんが、学ぶことも、勉強を教えるのも好きなのでした。玲子さんとは、高校の一年生の同級生であった時からの、親しい友人です。玲子さんは交際上手で、広く様々な人と付き合える人ですが、私は人との付き合いも嫌いではなく、出来ないことはないのですが、やはり、それが続くと溜息が出てくるのでした。