困っている「子ども」はまず見守る姿勢

「子ども」を教育するなかで、「子ども」が困っていたらすぐに口や手を出す教育者がいます。

そんな教育者は「困っているのを助けて何が悪い」、「私が助けてあげないとこの子はより困るでしょ?」と胸を張って言うかもしれません。

しかし、私は「子ども」の困りはお互いの成長のチャンスだと思っているのです。「子ども」が成長するパターンというのはいくつかありますが、まず自分の心にその問題を落とさないと成長は始まりません。

いきなり成長した部分だけ提供したところで、しょせんそれは借り物です。自分の実力とはなり得ません。「困る」ということは、まさしくその瞬間、自分の心のなかで自分のこととしてどうしようか迷っているわけです。

そこからどう新たな自分を生み出すか、「世紀の一瞬」なのです。

その「世紀の一瞬」を教育者の「余計な一言」で壊していいわけがありません。これはお叱りを受けるかもしれませんが、それはまさしくその「子ども」にとっては「余計な一言」なのです。

だから、教育者はそんなとき、まずは見守るのです。その後で「子ども」のなかにどんな心が生まれるのか、それはひらめくようにして短時間で生まれるのか、苦しみもがきながら時間をかけて生み出そうとするのか、そこを「見届ける」姿勢が必要です。

そして、そのときの状態によって「適切な」アドバイスができるようにするのが教育者なのです。そして、その「子ども」が教育者のアドバイスももらいながらその困っていた課題を解決したとき、「子ども」の表情は何とも言えない充実感で満ちあふれているはずです。

これは、問題は解決できたとしても「余計な一言」で解決したときの表情とはまったく違っているはずです。そして当然、「人」としての成長も大きな差となって、その「子ども」のなかに宿っていくのです。

教育者一人の捉え方で「子ども」の成長は大きく変わります。なんとか「子ども」を見届け、より良く成長させる教育者が一人でも多く育ってくれることを期待しています。

「子ども」の困りを側で見届ける。これができないと「子ども」の教育はできません