【前回の記事を読む】短所を修正するより「よっぽど効果的」な子どもの教育法とは?
「子どもの真剣さ」を侮るな
「子どもの真剣さ」なんてしょせん「子ども」レベルの考えだと思っている教育者は多いかもしれません。私も長らく「真剣さ」という言葉は重みのある言葉で「子ども」に使うことはあまりないと思っていました。
しかし、あるとき、「子ども」の部活動指導で気の抜けた練習をしていた「子ども」を指導していると、その「子ども」が、「私は明日から真剣にやります」と豪語して帰って行きました。その「真剣」という言葉に私はあまり深く考えず、明日から多少は改まるだろうが、しょせん「真剣に」などとはほど遠いことしかできないだろうと思っていたのです。
ところが、あくる日からその「子ども」は「人が変わった」かのように黙々と練習に取り組むようになり、最終的に県の大会に出場するまでに変化したのです。ここまで大きく変わる例はそう多くはないと思いますが、近畿や全国大会に出場した「子ども」たちをみていても、ある時期から「人が変わる」という現象は数多く体験してきました。
だから、「真剣さ」というのが「子どもの戯言」というのは当てはまらず、社会通念的な「真剣さ」という言葉と同じように十分にその重みを持って思考し、実行できる力が「子ども」には備わっているのです。あとは、教育者のとらえ方・見方とその扱い方に懸かっていると言っても過言ではありません。
このように、「子ども」には無限の可能性が秘められています。その無限という領域を教育者がいかにとらえられるかは「子ども」を教育するにあたって大きなポイントです。「子ども」の真剣な世界を甘く見てはいけません。
もし、真剣にと言いながら真剣な態度が見られないとしたら、それは教育者側のそれまでの指導のなかに何か問題があると考えたほうが良いと思います。
「子ども」と言えど、その「心」が充実したときにはとてつもない力を発揮する
「子ども」を頑張らせるライン
どんな教育をしていても、「子ども」一人一人のそのときの実力は当然異なるはずです。
ところが、教育者はそれを一律に同じラインまで引き上げようとしてはいないでしょうか。チームプレー、個人プレーによって多少は違うのかもしれませんが、それでも一人一人が活きてこそのチームプレーだし、個人プレーに至っては、まさしくその「子ども」自身の問題となります。
その「子ども」の所属する集団がチームプレー競技だとして、まずはチームの目標といったものが決まるはずです。そして、大切なことは、チームの目標を達成させるために個々の目標をどこに定め、それをどうクリアしていくかということです。教育者はそこを見てどう教育していくかを考えなければいけません。チームで揚げた目標を達成するだけの力がないからとその「子ども」を除外することは、あまりにも危険極まりない教育をすることになります。
教育者は、一人一人に目を配り、どの目標に向かってどう頑張ろうとしているのか、一人一人の頑張る方向とその熱を感じながら、しっかりと自分自身の力で目指す目標が勝ち取れるよう、寄り添い励ますことが大切な役目です。頑張るラインは決して教育者が決めるものではありません。
あくまでも、「子ども」自身が自ら目指す目標を見据えながら決めていかなければならないものです。教育者は、そうして自らが歩んでいく「子ども」に寄り添い励まして、「子ども」が立ち止まったり、座り込んだり、横を向いたり、後ろを向いたり、あらぬ方向に駆け出していく行動を柔軟に導いていくのが本来の教育をする姿勢だと思っています。
「子ども」が自分のラインで頑張れているか。良くも悪くも見届ける姿勢が大切です