すでにワ抜けコンビは仲直りして弾んだ明るい声に戻っていた。Nさんが目を覚ましたのか、狸寝入りをやめたのか、何らかの変化があり、次に嫌がる薬を無理やり飲ませようとしている会話が聞こえてきた。それでも、Nさんの声が聞こえてくることはなかった。
「キ・ノ・ウ・ネ・ム・レ・ナ・カ・ッ・タ・ヨ」
私が京子を見ると、少し甘えるような目をして口パクで訴えた。午前中に風呂に入って、さっぱりしている時間だった。私は風呂セットの入った手提げ袋を持って立ち上がった。
「とりあえず、車に置いてくる」
手提げ袋を京子の目の高さにまで持ち上げた。それを見た京子が、急に顔をしかめて、早口の口パクをした。慌てたように、何かを拒否していることが分かったが、私は何のことか理解できずに、作業を中断してベッドの脇の丸椅子に座った。
「カミ、カミ、カミ」
収納箪笥の取っ手に掛けられた五十音字表のことである。夜中に目覚める度に、メラ(唾液を自動吸引するチューブ)が口から落ちていたらしい。不安と睡眠不足で、風呂に入る気力が起きず、取り止めたと京子が言った。
「疲レ切ッテ、イルヨ」
今もひどく疲れているが、不思議に眠気が湧かないと言った。結論として風呂セットは使ってないので、洗濯する必要がないということだった。
京子は自力で唾液を飲み込む力が弱っているので、口にメラを咥えて、溜まった唾液を持続的にチューブで吸引していた。この唾液が誤嚥をまねき、肺炎を引き起こすことがあるため、飲み込む前にメラで外に排出する必要がある。
吸引器と口までの間の管が、唾液の重さで垂れ下がってしまったのか、それとも夜のおむつ替えの拍子に布団に引っかかって張り詰めたチューブに引っ張られたのか、眠って開いた京子の口からメラがこぼれ落ちたのであろう。A病院では、ワイヤー入りのチューブを使用することで、口の所で曲げて、引っかかりをつけ、落下を防いでいた。
「帰るとき、気を付けて見ておくよ」
妻の口から細い吸引チューブが、途中で太いホースへと引き継がれ、壁のタンクの前で垂れ下がっている。その経路を点検して、私は八の字のねじれを直した。メラの落下とは、あまり関係ないかもしれない。