南雲さんのサイン会まで一週間ほどに迫ったある日、風太は編集長に呼ばれた。副編集長に呼び出されることはしばしばあっても、編集長に直接呼び出されるのは非常に稀だ。風太に少しの緊張が走る。
しかしここ最近は目につくような失態はないはずだ。ペットボトルから移し替えたコーヒーを出しているのは副編集長だけであるし、美人な後輩の居眠り写真集は内密に企画進行中である。
時々「編集長、息臭いな」と思うことはあったが、それを話したのは会社には何の関係もないハツ相手だ。
「落ち着け、俺は割とできる男だ」
風太はそう暗示をかけて、編集長室のドアをノックした。その瞬間、風太の脳裏に憐れむような瞳で自分を見る南雲さんの顔が浮かんできた。風太はハッと息を飲み、むせそうになる。
まさか彼女が風太を無用の長物としたのではないだろうか、そんな不安がよぎった。確かに南雲さんは一人でも大丈夫なタイプの人間だ。風太のような小物に周りでちょこまかとされるのは目障りな可能性がある。
しかしそうは言っても大学以来の付き合いで、なんだかんだと親しくなっているはずだ。彼女がこの出版社と良好な関係を築けているのも、風太が窓口となってのことである。風太はそう自負したかった。だが信頼を勝ち得ている確証はない。不安にかられ続ける風太であったが、部屋の中からは「入れ」と言う編集長の声がする。立ちすくんでいるわけにもいかず、風太はドアノブに手をかけた。
「ええい、落ち着けるか!俺は割とできない男だ」
風太は自分にかけた暗示を拭い去り、いっそのこと清々しく編集長に対峙する。ドアを開けて部屋に入った直後、風太は堂々と言った。
「編集長! 私には南雲さんが必要なのだ!」
それは最早、私情の極みである。出版社と彼女の間を取り巻くとか、彼女の仕事を上手く運ばせるためとか、そういう仕事の都合は全く関係ない。風太は南雲さんに対する思いをその熱い瞳に詰め込んで編集長を見た。対する編集長はいきなり睨みつけてくるヘンテコな部下に呆然としていた。
「とりあえずお前、減給ね」
編集長がそう言った直後、風太は膝から崩れ落ちたのである。