アメリカのハイスクールへ

ある日、カルチャースクールの先生から「ダンスを本格的にやるんだったら本場のアメリカへ行ったら?」とすすめられる。

アメリカはミュージカルの本場。歌とダンスで人々を魅了する。母に話すと「未央がやりたいんだったら応援するよ」とのこと。私の夢は大きく広がる。ただ、一抹の不安があった。中学2年の時、おたふく風邪に掛かり、子ども病院に行った時、MRI検査の結果「脳に空洞がある」と言われたことだった。

中学卒業後、インターナショナルスクールに入学。そこで、アメリカ・ミネソタ州にある高校を紹介される。体の不安を抱えながらもダンスの夢を諦めきれず渡米する決意をする。

2003年9月私はアメリカ、ミネソタ州にあるセイント・クロイックス・ルーセラン・ハイスクールに入学する。ミネソタ州はカナダと接するアメリカ合衆国の中西部の北にある。最寄りの空港はミネアポリス国際空港。同校はキリスト教ルター派の大学進学校。

30エーカー(約3万7000坪)の広大なキャンパス、教師の57%が修士号以上の高学歴。スポーツ、音楽、演劇など課外活動も充実している。入学資格は年齢、学力、英語力、海外経験は一切不問。〝やる気のみ〟ときている。2年間学べば語学力と高校卒業資格が同時に取得できるというから日本では考えられない。

一般論として、「アメリカの大学は間口が広く、出口は狭い。日本の大学は間口が狭く出口が広い」といわれるが、なるほどと思う。母は左右非対称の足をカバーするため、右足の靴底を厚くした靴を特注。アメリカに送り出してくれた。

私はダンス部に入部した。アメリカの部活動は日本と違い、オーディションがある。左右非対称の足をカバーして必死に練習した。しかし、右下肢の曲がりはカバーできない。ターンがうまくいかない。見かねたダンス仲間から、「ミオ、ダンスはムリなんじゃない」と言われ、ショックを受ける。

ついに歩行困難に陥る。診察の結果、推間板ヘルニアと診断される。腰痛コルセットを巻く。

高校2年、ダンス中止。腰痛、関節の痛みが酷くなり、一時帰国。

大学病院に通院。その後、同病院には春、夏、冬休みごとに一時帰国して診察を受ける。

2005年、セント・クロイックス・ルーセラン・ハイスクール卒業。ダンスを学ぶという夢は破れたが、これからも自由で開放的なアメリカの大学で学びたい。私は同年、ウィスコンシン州にある州立大学に入学する。ウィスコンシン州はアメリカ中西部、五大湖に接した名門である。ここで2年間、一般教養を学ぶ。

一時帰国して大学病院の診察を受けた時、腰部に〝ネズミ〟(医療の業界用語で骨欠け)があると診断される。

2007年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校(CSU-LB)に編入。同大学は1857年、カリフォルニア師範学校としてサンノゼに設立された。映画監督のスティーヴン・スピルバーグ、歌手のカーペンターズは同大学の卒業生である。

カリフォルニア州立大学のホームスティ先のママ、ジェーンさんは看護師だった。在学中、たびたび、腰痛に襲われた。ジェーンは実の娘のように介護をしてくれた。単に病気についてのアドバイスや処置だけではなく、学園生活そのものをエンジョイできるようにサポートしてくれた。

ジェーンから私は彼女の勤務先の病院にチャイルド・ライフ・スペシャリスト(CLS)という部署があり、専門のスペシャリストがいて、病気の子どもをサポートしているという話を聞いた。調べてみると、日本にはこのような制度はなく、スペシャリストを養成する大学もないということを知った。

私はCLSのスペシャリストの資格を取り、この仕事に従事することが私のやるべきことではないかと思った。私は病を抱え、ジェーンと会うことで、ダンスに代わる新しい夢を発見した。CLSスペシャリストの資格を取るには州立大学卒業後、専門の大学院で心理学を学ばなくてはならない。