第2節 無常観と「夢の世」あるいは「夢幻泡影」
今日では「夢」といえば、睡眠中の「夢」と「希望」という意味がほとんどだが、「希望」の意味での使用は二〇世紀に入ってからのようだ。dreamの訳語だったろう(註:「夢」の用法について、明治の大槻文彦『大言海』には「希望」の意味記載はなく、昭和の小学館『大日本国語辞典』では木下杢太郎の文の引用で「希望」の意味が出る―新妻)が、古代から「夢告」が信じられたように、夢を特別視する見方が強く、明恵や親鸞のような優れた仏僧も夢に重要な意味を見出していた。
その一方で、平安時代頃から「はかないもの」「無常」の比喩と考えられるようになったことは、例えば『古今集』には紀貫之の知人の死を詠んだ歌などで明らかだ。「夢とこそいふべかりけれ 世の中にうつつあるものと思ひけるかな」。この世は「夢」なのに、「うつつ」=現実が存在すると思い込んでいたと、人の世のはかなさが歌われる。
この無常なる「夢の世」、人生は夢幻のごときものという発想は、おそらく頻繁な戦乱と関係もあろうが、室町期以降、特に顕著になってくる。足利尊氏は、光明天皇の践祚も済ませた一三三六年八月に清水寺に祈願した際、「この世は夢のごとくに候、尊氏に道心賜せ給ひ候て、後生助けさせおはしましく候べく候」と記した(佐藤和彦編『論集 足利尊氏』東京堂出版 一九九一年)。
また、室町時代の『閑吟集』には「ただ何事もかごとも(=何もかも) 夢幻や水の泡 笹の葉に置し露の間に 味気なの世や(=味気ない世だよ)」とか「何せうぞ くすんで(=まじめくさって)一期は夢よ ただ狂へ(=遊び戯れよ)」などの歌詞がある(『新訂閑吟集』浅野建二・校注 岩波文庫 一九八九年)。
有名なものとしては、織田信長が好んだ幸若舞曲「敦盛」に「人間五十年、下天(「化天」とも)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきか」という詞章があり(『改訂 信長公記』桑田忠親・校注 新人物往来社 一九六五年)、豊臣秀吉のよく知られた辞世には「露と落ち露と消えにしわが身かな 浪速の事も夢のまた夢」(松村雄二『辞世の歌』笠間書院⑤)とある。