ここで、日本人の無常観の歴史を少し振り返っておきたい。

古くは『万葉集』に「うつせみの世は常なしと知るものの秋風寒み(=寒いので)しのびつるかも」(大伴家持、亡き妻をしのんでとか、「世の中を何にたとへむ朝びらき漕こぎ去いにし船の跡なきがごと」(沙弥満誓)などと詠われた。やがて仏教の社会への浸透とともに、多くの「無常」の歌が挽歌・釈教歌として詠まれるほかに、多くの人の愛でる「桜」が無常の象徴の一つともなった。

『古今集』でも、「うつせみの世にも似たるか花ざくら咲くと見しまにかつ散りにけり」(よみ人知らず)と詠まれた。そして無常なるこの「穢土」を厭い、「浄土」を欣求する浄土教信仰は源信の『往生要集』(九八五年成立)などの影響もあって人々の間に拡大していった。

『方丈記』『徒然草』また『平家物語』の無常観については言うまでもないだろう。

兼好法師ら知識人にとってのみならず、鎌倉期に中国から日本に渡来した禅宗でも「生死事大・無常迅速」は根本的な課題だった。室町時代の蓮如の「白骨の御文章(御文)」は福沢諭吉なども「一時は暗記した」こともあった(「福澤全集緒言」『福沢諭吉全集』第1巻岩波書店②)ほど、人々によく知られていた。

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終しちゅうじゅう、まぼろしのごとくなる一期いちごなり。(中略)されば、あしたには紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼まなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば(下略)」

といった文章を幼い時に聞かせられて、この世の無常と死の受容の心情に染まった人は実に多い。

浄土真宗信仰の家庭に育った内科医で臨死体験もしたという毛利孝一(一九〇九~二〇〇二)もその一人で「子供のころから無常感の傾向がしみついている」ためか、人生上の問題にぶつかると「まず仏教書に頼ってきた」と記している(『生と死の境』東京書籍③)。