瑠衣は、ワイングラスを横にどけ残っていたコーヒーを口にし、先輩から聞いた話の記憶をたどりながらしゃべった。
「先生、私は高校生でしたので謝礼のことはわかりません。古くからの先輩たちが話していたのを小耳にはさんだのですが、井上先生と島田先生とのおつき合いは二十年ほど前からだったそうです。鶴前総合高校吹奏楽部が初めて全国コンクールに出場し六位入賞しました。そのときの審査委員長が井上隆先生でした。
当時無名の高校ゆえ、多くの審査員は、気にもとめなかったそうです。ところが、井上先生だけがうちの高校を学生バンドとして高く評価し、島田先生を審査委員長室にわざわざ呼んで生徒とともに頑張るようエールを送ったとの逸話が残っています。そのときの井上先生の講評は、『指揮者の先生を見ている生徒の目の輝きが他校と違う』という内容だったそうで、高校の吹奏楽は、教育の一環であると強い信念をお持ちであったとうかがってます。
それ以来、井上先生の国内でのコンサートには欠かさず島田先生が聴きに行かれていました。井上先生も音大出身ではなく、島田先生と共感できる点があったのではないかと言う先輩もいましたが、それは関係ないと私は思います」
その逸話を聞いていた坂東は、
「そうでしたか。井上先生は音楽家であると同時に教育者だったんだね。だから、君の高校に行っては若い生徒たちとの交流を大切にし、音楽を通じて生涯教育の重要性を生徒たちに伝えておられたのだなということがよくわかった。普通の指導者では、なかなかそういう気持ちにはなれないな」
と納得した様子でうなずいた。
「私もそう思います。井上先生の人となりについて、ちょっとしたエピソードを紹介させてもらってよろしいですか?」
と言って瑠衣は身を乗り出した。
「瑠衣ちゃん、それは聞きたいな」
と坂東も乗り気だった。