第二章 忠臣蔵とは何か

『仮名手本忠臣蔵』以前

『仮名手本忠臣蔵』以前にも元禄赤穂事件を連想させる作品が上演されている。そのなかから『仮名手本忠臣蔵』に影響を及ぼしたとされる作品を確認しておきたい。

そもそも仇討ちは元禄赤穂事件だけの専売特許ではなく中世から存在していたもので、江戸時代においては、仇討ちは一定の条件をもとに許可されていた一つの制度であった。古くには父親の仇である工藤祐経を討った曾我兄弟の仇討ちや、鍵屋の辻の決闘で知られる伊賀上野の仇討ちや浄瑠璃坂の仇討ちなどがあり、仇討ちは武勇伝として語り継がれていたことから、芝居の中に仇討ちの場面が組み込まれているからといって、それが全て元禄赤穂事件と結び付くわけではない。

それらを踏まえたうえで、元禄赤穂事件での仇討ちの場面を取り入れた作品として、吉良邸討入りから八年後の宝永七年(一七一〇)に上演された『鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)』および同年の『碁盤太平記』があげられる。『鬼鹿毛無佐志鐙』は先に吾妻三八による歌舞伎が大坂篠塚座で演じられ、直後の同じ年に紀海音による浄瑠璃作品として大坂道頓堀にあった豊竹座で上演されている。歌舞伎の『鬼鹿毛武蔵鐙』に関する史料がほとんど残されていないことから、詳しい内容は不明であるが、題名の類似性からして、紀海音が先行作品である吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』を参考にしたものと考えられ、おそらく両作品はほぼ同じような内容であったと考えられている。

同年、やはり大坂道頓堀の竹本座では近松門左衛門作『碁盤太平記』が上演されているが、『鬼鹿毛無佐志鐙』とはどちらが先の上演であったかについては残されている史料が少ないことから今のところ特定できていない。

それから二十二年後の享保十七年(一七三二)に『鬼鹿毛無佐志鐙』と同じく小栗判官と照手姫の伝説に元禄赤穂事件を組み入れた『忠臣金短冊(ちゅうしんこがねのたんざく)』が豊竹座で上演され、更に十六年後の寛延元年(一七四八)、今度は『碁盤太平記』が上演されたのと同じ竹本座において『仮名手本忠臣蔵』が上演される。この『仮名手本忠臣蔵』には、『忠臣金短冊』の立作者であった並木宗助(輔)が並木千柳と名前を変え作者の一人として参加している。

このように、芝居小屋や作者に共通性のある元禄赤穂事件に関連した四作品は、個々においては単独の作品であるが、それぞれに互換性を有した関係を共有しながら進化を遂げ、集大成となる名作『仮名手本忠臣蔵』が誕生することになる。