商の拘束

しかし商の行動を見ると政治的な意図(つまり体制を破壊する暴力行動)まで考えていたとはとても思いにくい。

「戦争反対」と人目も憚らずに叫んだりしていたらしいが、シュールレアリズムは絵画の手法として興味を持っていただけなのではないかと思う。彼は詩も残しているが、天真爛漫な性格の商だったから、素直に表現しただけではないかとも思う。

後日談であるが、この点については中国新聞の道面氏とお会いした時に、「商の主張と行動は確信的であったと思う」と言っておられたことを印象深く記憶している。

商を捕えて取り調べを行った結果について詳細な記述が、レポートとして内務省警保局編「社会運動の状況」に残されている。皮肉なことだが結局のところその記述に頼るしかない。

取り調べをしたこと、その後釈放されたこり職務を果たしたという形を残したかった」だけではないのかとの疑念が残る。

商はその取り調べの後、裁判にかけられることはなかった。逮捕すること自体が現在の法律では考えられないし、報告書が作成されただけで起訴されることもなく釈放されたのだとしたら拘束それ自体が不当だったのではないだろうか。

戦前の政治体制(軍事政権)や法体系(旧治安維持法)の下では望むべくもなかったかもしれないが、仮に無罪放免されても国家に賠償を求めることもできなかった。

このことを少し調べてみた。「学説的には『国家無答責の法理』という考え方があって、国家ないし官公吏の違法な行為によって損害が生じても、国家は賠償責任を負わない」との考え方があった。

商が唯一特高からもらったものは「健康を害して命を縮めた」ことくらいしかない。そうした体験について商は釈放後どう思っていたのか、残念ながら、それを自ら書き残したものは見つかっていない。何も語らぬまま終戦の前年に病没した。一族にとっての「悲しい記憶」のみが残っている。

但し、生前彼が深く付き合っていた友人たち(度会・広田の両氏)が、「山路商は、そのような非道な扱いを受けた当局者を格別恨むような言辞を一度も洩らさなかった」と山路商遺作展覧会のパンフレットに書いていたことに心の安らぎを覚える。