【前回の記事を読む】食い違う歴史書たち…日本上代の謎「法隆寺はいつ燃えたのか」
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』
法隆寺については、天平十九年(七四七)二月十一日付の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』という公式の史料が知られています。この『伽藍縁起』は、法隆寺が所有・管理する建物、仏像・仏具、寺田などの財産の目録として、監督機関である僧綱所に提出したものであり、寺の有する権利を主張する重要な資料であるため、詳細かつ正確であることが求められます。
標題にある「伽藍縁起」とは、七堂伽藍と呼ばれる建物が創建以来たどった経過という意味であり、「流記資財帳」とは財産の入手経過と現状という意味を持っています。このような事情を踏まえれば、『伽藍縁起』は天智天皇九年(六七〇)四月三十日に、七堂伽藍すべてが焼失したという大火災のことを報告しなければなりません。
また、伽藍の焼失以後、『伽藍縁起』の提出までの間に法隆寺の再建もなされていますので、建物の再建の経過も記載しなければなりません。『伽藍縁起』とは、本来そのようなことを意味しているのです。
ところが、この『伽藍縁起』は、用明天皇と代々の天皇のために、推古天皇と厩戸皇子が法隆寺を含む七箇寺の創建を発願したと伝えるのみで、天智天皇九年(六七〇)四月三十日の大火災のことや、その後の再建のことに全く触れていないのです。
『伽藍縁起』が提出されたのは天平十九年(七四七)ですから、法隆寺大火災から七十七年が経過し、『日本書紀』の完成からも二十七年が経過しています。歳月の経過はあるというものの、天智紀に一屋も余すことなく焼失したと派手に記述された大火災について、直接の当事者である法隆寺が一切触れないことは実に不思議です。
『伽藍縁起』という公式の史料までもが口を閉ざしているのですが、これはどういうことでしょうか。この不作為の裏に、何が隠されているのでしょうか。