第一章
一時間が過ぎた頃、母が帰宅した。少しすると足音が近づいてくる。部屋の引き戸が開き、母が入ってくるのが分かると、鼻水を啜って泣いていたのを勘づかれないように音を消した。
「里奈、大丈夫ね?」
「――本当に別れると?」
少しの間沈黙が流れた。
「ごめんね、里奈。パパには他に女の人がおったとよ」
「女の人?」
頭が真っ白になった。女の人――母とは別の女性、つまり浮気相手。それが愛人であり、不倫だと理解した。
「パパはね、ずっと前から彼女がいたんよ。里奈が二歳くらいの時に分かったけど、その女性と別れるって言ったけんママは信じたと。でも今朝早くにパパが寝ているときに携帯が鳴り続けたから、仕事の大事な用件かもしれんと思って手に取ったら、十年前のそのひとやった」
母の声はだんだんと弱くなり、すすり上げる音がした。
「もうママ、むりっちゃん。だけん、里奈には辛い思いさせてしまってごめんね。でもママはもうパパとは一緒に生活できん」
私の母は強い女性だった。どんな苦境に立たされても諦めずに家族を何よりも大事に思っている。犬や動物のいのちを扱う映画などでは簡単に涙をみせたが、いくら父と大喧嘩しても、怖い思いをしても、決して泣くことはなかった。一度たりとも弱音を吐いている姿を見たことがない。そんな母が泣いているのは、後にも先にもこの時だけだ。
これはよっぽどのことだ。人生で最も辛い瞬間なんだ。お母さんを楽にしてあげたい。別れに反対してはいけない。私は母を守りたかった。母が家族を守るために、長い間ひとりで抱えてきたことの重さをひしひしと感じ、気づくと椅子から離れ母を抱きしめていた。それから声を荒げて一緒に泣いた。
頭はまだパニック状態であったが、父が不倫をしていたという事実を受け止めた。