十一月〜三月
それから、どうしても彼女の読書傾向が気になったので、その話もした。
「前『指輪物語』読んでたよね? 俺のまわりにあれ読んでる人いないから珍しいなって思った」
ヒカルは、
「やっぱり変ですか?」
と少し戸惑った様子を見せた。急いで否定する。
「全然! むしろ他の人が読まない本読める子ってすごいなって思う。色々な本読めることも立派な能力だと思うから」
ヒカルは少し照れた。
「それに俺がファンタジー好きだから、もしかしたらヒカルちゃんもそうなのかなって」
「好きです」
ヒカルの両親は読書を推奨する人たちだったので、小さい頃から興味を持った本は積極的に買ってもらえた。教育的に良いと思っていたのだろう。お気に入りだった『ハリー・ポッター』シリーズや『ナルニア国物語』が「ファンタジー」というジャンルであることを知ったのは小学生の高学年だったそうだ。「ファンタジー」を特に好むようになったのは中学生の終わり頃からで、同時に現実逃避的に読書をすることが増えてきたらしい。俺は現実逃避的な読書がいけないとはまったく思わない。それも本の立派な価値だ。けれど、
「お父さんも昔は読んだ本の感想とか嬉しそうに聞いてくれていたのに、『空想的な本ばっかり読むな』とか言うようになってきました」
そう話しながらまた暗い顔になった。流れがまた不穏な方に向かいそうだったので、残念だけどこの話もそこで打ち切った。
こうした雑談の効果かは分からないが、ヒカルは年があける頃にはすっかり打ち解けてくれた。やっぱり距離感がちょうど良いのだろう。彼女が属するコミュニティの関係者ではないという関係性に加え、年齢差もうまく機能しているように感じた。六歳年上というのは人生の教訓を垂れるほど年上ではないが、かと言って同世代というわけでもない。ある程度親しみを持って接してくれると同時に、こちらの言うことにちゃんと敬意を払ってもらえる。結果的に桃の師匠という人の見立てが正しかったということになる。それが少し悔しいが、警戒していた子がだんだん心を開いてくれるのは嬉しいものだ。
肝心の勉強について、生徒(もしこの表現が適切ならば)としてのヒカルはとても優秀だった。厳しめに指定した範囲を必ずやってきた。少し難しいかなと思っていた問題も、分からないなりにちゃんと取り組んだ痕跡がみられる。それだけで根がとてもまじめな子だということが分かる。学生時代、家庭教師で受け持った子の中には宿題をやらない子もいたのだから。
基本的に教えていたのは英語だが、時々は世界史の勉強も手伝った。手伝ったと言っても多くの場合はそれこそ雑談の域を出なかったが。大学での専攻だった美術史や教養程度の文学の知識を活かして、時代別の芸術のトレンドや、作品・作家と社会状況を紐づけて話してあげると、興味を持って聞いてくれた。特に近代のヨーロッパ文学に関心を示して、大学に入ったら古典も読んでみたいと言っていた。そうやってモチベーションが高まるのはとても良いことだ。
改めて、自分がどのようにヒカルを手助けしているかを俯瞰して書くと、①相手の現状に合わせた最良の学習プランを立てて、②それを達成できるよう適切なサポートをし、③必要であればプランを修正する、ということになる。こう書くと「コンサルの仕事と似てない?」と言われそうだ。確かにそうなのである。本質的には共通する部分があるな、と自分でも思った。にもかかわらず、自分の努力や費やした時間に対する精神的な満足——誰かの役に立っている感覚とか、何かを変えていく手応えとか——そういうのが会社の仕事とは全然違った。俺は社会人になって久しく忘れていた、目の前の人間の役に立っている充実感を味わっていた。
この北欧テイストのカフェでヒカルといる時は、現実とは違う時間が流れているようだった。外の世界は秋が終わって冬に入り、クリスマスで盛り上がり、お正月で盛り上がった。でも、ここにはそうした世間の空気はあまり入り込んでこなかった。ヒカルの冬休み中も変わらず、たんたんと、時折雑談を交えながらここで勉強を進めていった。
あっという間に冬も終わり、桜の季節になった。