置き去り
気がついたら、山の中だった。
何も覚えていない。
なぜ、こんな所に私はいるのか?
私は歩いてきたのか? 車はどこにもないし、辺りには誰もいない。周りはうっそうとした森で、聞こえるのは鳥のさえずりだけだ。
なぜ、私はここにいるのだろう?
何か事件に巻き込まれたのか? 記憶がない。
寒くもないし、暑くもない。まるで、秋の始まりのように感じるが、私の服装はというと、夏のスカートを穿いている。
『何時だろうか?』
朝日のような太陽に照らされながら思った。
私は、どこも怪我をしていないし、痛いところもなかった。
とにかく、山を下りよう。山道はあるので、一歩一歩慎重に下り始めた。
歩きながら記憶をたどったが、やはり何も思い出せない。
何しろ、スカートで、靴だってパンプスなのに、山にいたなんて信じられない。
あまりに非現実的だ。
『朝日だ、あれは』
この澄んだ空気。
私は、理解した。
きっと、誰かに山に連れてこられて置き去りにされたのだ。そして、一晩中気を失っていたのだ。
いや、一晩中、でいいのかどうかはわからない。昨夜この山中に連れてこられたという記憶はない。
『だが、誰に?』
と、思った。
何も思い出せない。
私は、木村栄華、三十一歳。商社に勤める事務職だ。いわゆるアラサー世代だ。会社での私のことは、ちゃんと覚えている。
マイペースで生きてきた、私。
偉そうな上司にだって、臆せずはっきりものを言い、乱暴な言葉遣いをする若造の後輩は厳しくしつけた。だから、誰からも好かれなかった。
だけど、別にそんなこと気にしなかった。会社を解雇されなければ、私は良かった。
飲み会やその他の誘いもすべて断ってきたので、今は誰からも誘いはなかった。
仲のよい友達もいないし、彼氏ももちろんいない、そんな私だった。
だからといって、山に置き去りにされるほどの仕打ちを受ける覚えはない。恨まれるほど、人を叱ったこともない。毅然と、正しいことを言ってきたつもりだ。
覚えがないのは、昨日何をしていたかだ。いや、一昨日もだ。
いつからの記憶がないのだろう。
今は、何月何日かさえわからない。
なぜなのか?……歩きながら、いろいろと考えを巡らせた。
あまりに何も浮かばないので、自分は記憶喪失になったのかと思い始めた。
錯乱状態になっていた。疑いなく、私は記憶喪失だ!
恐ろしい! どうしよう!