疎開先は土蔵の二階
トラックはガソリンがなく木炭車だった。荷台の前に大きいストーブのような釜が取りつけられ、小さく切った薪を入れて燃やして走っていた。
山県郡の八重町は島根県に近い山奥で、ごとんごとんと山や谷や橋を越えて走った。
家族四人はわずかばかりの積み荷にもたれて荷物の後ろの方に固まって言葉もなく抱き合うようにして耐えていた。
八重町に到着するまでに二時間半も要した。四十キロも走ったそうだ。
転居先は、父が子供の頃、世話になった岸川という農家だったが、予科練生(海軍飛行予科練習生)たち数人の合宿所となっていて、そのうえ疎開してきた岸川の親戚の家族も同居しており空き部屋はなく、蔵の二階にしか置いてもらえなかった。格子のある小さな窓が一つしかなくて昼間でも薄暗かった。
Mは夜になると鼠が出てきてかじられるのではないかと思うと怖かったが、岸川のおばさんは猫を飼っているので鼠の心配はいらないとのことだった。
予科練生たちは特攻隊で訓練する飛行機もないままに、毎朝、松の根から油を採る作業をするために、近くにできたトタン屋根の工場へ出かけた。
父の生家は貧しい農家
父が生まれて高等小学校を卒業するまで暮らした家は、岸川の家から一キロばかり離れた大字今田という地名の山裾にある農家だった。
父の長兄の数雄伯父は兵役で不在、伯母はリュウマチで体が不自由で、年老いた祖母が一人で農作業をしながら、女の子三人と男の子一人の孫四人と牛一頭を養っていた。
とても父の実家へMたち家族四人が押しかけてはいけない状態だったのだ。
そこでは、玄関の土間の奥に暖炉があって台所と食事をする所だった。その脇に牛小屋があり大きな黒い牛が寝転んでいた。臭くて蠅がいっぱい飛んでいた。
牛は農作業に使うだけではなく乳を搾って家族の貴重な栄養源になっているそうだ。
祖母の家に遊びに行ってもおやつなどはなく、従兄姉の長女で六年生の節子と五年生の長男の晴雄が気をきかせて畑へ連れていってくれて、おやつ代わりに人参を引き抜いてきて小川で洗ってかじった。
柿によく似た味がして空腹のMにはとてもうまかった。
従兄の晴雄はMより二歳年上で大きくて体も頑丈そうだった。
晴雄は祖先が農家とか百姓と言われるのを嫌ってか、祖先は武士で毛利元就の家来だった、と言う。
合戦があると駆り出される雑兵だったのではないだろうか。
近くには毛利家の墓があると言って連れていってくれた。見晴らしのよい高台に、いくつかの大きい墓石が並んでいた。
家に帰ると晴雄が仏壇の脇にしまってあった刀を取り出してきて、自慢そうに抜いて見せた。刀は手入れをしないせいか錆びていた。