籾のない白いご飯は最高
しばらくして、通りかかった手拭いを被ったもんぺ姿のおばさんが「どうしたんじゃ」と心配して声をかけてくれた。
「わしは広島へ行きたいんじゃが、朝から何も食べとらんけえ、もう歩けんようになったんじゃ」と言うと、おばさんが助け起こして、すぐ近くの家へ連れていってくれた。
「食べんしゃい。元気が出るけえ」と茶碗に山盛りのご飯と味噌汁と漬け物を持ってきた。Mは夢中で食べた。籾のない真っ白いご飯は最高のご馳走だった。ご飯を二杯もお代わりした。
Mは一息つき「おばさん、わしは広島の家へ帰りたいんじゃ」とわけを伝えると、おばさんは「よしよし、ここにいんさいよ。ええね」と念を押して出ていった。
おばさんは駅まで行って駅員にわけを話したらしい。
その日の夕方、広島から父が迎えに来てくれた。
Mは「もう西臨寺には帰らん」とはっきり言った。二度と無慈悲な先生とは会いたくなかった。
夕方の汽車で三カ月余りも過ごした庄原を発ち、父に連れられて夜には広島の東雲町の家に帰り着いた。
母が涙を流しながら迎え入れて、「もう放さんけえ。どこへもやらんよ」とふくよかな胸のなかへMを抱きしめてくれた。
父の故郷へ家族で疎開
Mは四月から七月の半ばまでいた庄原の西臨寺から逃げ帰ったが、そのまま家にはいられないので、兄の真一も庄原のお寺から呼び戻して、父の生まれ故郷の広島県山県郡の八重町に母、兄、妹と一緒に家族で疎開することになった。
父は、統制で呉服の卸商ができなくなったあとは、県の繊維製品協同組合に勤めていたので、一人で東雲町の家に残ることになった。
当時は引っ越しに際して家財道具を運ぶトラックの調達が容易ではなかった。
やっと、父の関係先の運送屋からトラックを借りることができ、荷台に荷物とともに母、兄、M、妹の家族四人が相乗りして山県郡の八重町へ向かった。