思いもかけず、また有名な監督から、映画化したい、と話をもらった。俺は、舞い上がることはもうしなかった。冷静に仕事の話をした。お金はいくらもらえ、話が原作と違うところがあるのか、俺の名前も出してもらえるか、など直接聞いた。
監督は、「君の望むとおりのものにしようとは思うが、大切なのは、いい作品に仕上げるということだ。そのためには、私の意向も入れさせてもらうけど、それはかまわないね」と、言ってきた。俺は、前の監督と同じようなものだろうと深く考えず、全て信頼して任せることにした。
だが、排他的な面がその監督にあることは、あとで知った。結局、俺はただのストーリーメーカーで、作品はあまりに俺の意図とは違っていた。登場人物がそれぞれに抱える哀しみや苦しみより、推理が主体だった。俺は失望したが、監督はいい作品に仕上がったと満足していた。
俺は、金より大切なことに初めて気がついた。大きな存在だったのは、監督ではなく、監督との信頼関係だった。同じ脚本でも前の監督なら、俺の意図どおり作っただろう。いや、俺の意図を汲んだ上で、それ以上のものに仕上げたはずだ。大きな失望が俺を襲った。俺だったら、違う撮り方をした。
映画の中の妻の苦しみや哀しみが、もっと描かれるように。そして、最後は、大きな苦しみもやがて消えていく。だが、それは妻のエゴイズムの勝利だった。犠牲になった強盗には、何ら後ろめたい気持ちを感じることなく、裁判では強盗が死刑判決を受けたことに、喜びを感じていた。その顔は、哀しみの顔ではなく、勝利の顔だったはずだ。
それを、妻の偽善を、エゴイズムを、最終的に描きたかった。俺は、この失望を大きな教訓としたかった。
だが、映画はなぜかヒットした。俺はまた映画の世界には戻れたが、嬉しさはなかった。金も大変な額がもらえたが、何も感じなかった。お互いが信頼できたあの監督の元に戻りたい。今は、無理だということもわかってはいたが、そうしたいと思った。
今は会えないが、いつか会えたら言いたい。『信頼できるあなたともう一度仕事がしたい!』と。悩ましい問題が解決したら……。
つまり、奥さんが良くなったら……。うつ病の度合いはどの程度なのだろう。治る可能性は? 今だけが悪いのか、あるいは何年も続くのか……。どれくらい待てばいいのだろう。話したいことがいろいろとあるのに……。
俺は焦った。焦ったが、何も前には進まなかった。行動を起こすタイミングを計りかねていた。