湯治に行く時は毎回金曜日から日曜日まで二泊三日の短い滞在を繰り返しただけだったが、実際に効能はあり、神経痛の元である腰痛と、関節が緩んでしまった左のくるぶしの痛みは和らぎ、三年間続いた週末の湯治でほとんど全快に近いところまでこぎつけることができた。毎回来栖は湯治の傍ら、辺鄙な山間部にある『ふれあいの里温泉郷』から尾道駅に車を走らせ、市内では車を利用せず、リハビリと町の探訪を兼ねて街中をよく歩き回った。
街中とそれに続く瀬戸内海沿いの通りではかなりの距離を何回も往復したので、散策もし尽したと言ってもよいくらいだった。街並みの中で来栖の興味を引いた旧跡は後々まで記憶に残ることになった。当時の散策では同じ道を何回も通っており、その途中で疲れを覚え一休みということになる。
よく立ち寄ったレストランや喫茶店ではなじみの客とみなされるようにもなる。このリハビリを目的とする旅先での「休憩所」では知り合いもできた。立ち寄るのが定番となっていたのはJR尾道駅から北東に向かって徒歩一〇分ほどのところにあるカフェだった。瀬戸内海に近く南北に伸びる商店街の中にあり、商店街全体は彼が通っていた頃には相当さびれていた。
かなりの店はシャッターを下ろしているようで、カフェも昔の喫茶店を無理やりモダンに改装したという趣である。壁面の内装も古びてきており、カウンター後方の壁など汚れを隠すかのように、八〇年代に封切られたという『尾道三部作』の映画ポスターと監督のサイン入り色紙が何枚か貼られていた。
尾道に来るまで来栖は全く知らなかったのだが、大林宣彦という監督がこの町を舞台とし、高校生を主人公とする映画を製作していた。この一連の青春物は一世を風靡し、尾道の町おこしに大いに貢献したということだった。
これらのことはカフェのマスターと結構くだけた会話を交えるほどになってから聞かされたことだ。出入りの客もほとんどが地元の中高年世代の常連客のようで、まれに若いカップルや女の子のグループが
入ってくると、これは尾道映画ゆかりの地を訪ねて、ということのようだった。映画の製作スタッフがこのカフェをけっこう休憩所として使っていたと知ったのは常連客の一人と言えるぐらいになってからである。
この町についてマスターから情報を得ているうちに、他の客も何人か交えて世間話に興じることもあった。
時には個人的な身の上話を誰かが語りだし、それについてマスターを中心に、皆で意見を交換し合うようなこともあった。もっとも地元の人たちが中心の話の中に入れたとはいえ、よそ者意識の共有でごく親しくなれたと感じた相手は北九州出身のマスターだけだった。