第一部
四
ところで、庄屋の主となった佐治衛門にとって大切なのは、当時の真備村一帯を支配する岡田藩伊東家との付き合いであった。大体、庄屋の仕事とは、お上からの伝達事項を農民に伝えたり年貢米を徴収して岡田藩に納めたりすることである。だから、絶えずいい関係を保っておかないといけない。
その際、白河一族にとって大いに幸いしたのが、戦国時代に赴任してきた右京ノ介に対する地元民の人望の厚さだった。詳しくは分からないが、それは、後世の地元民が「右京ノ介をたたえる祭りごと」を毎年欠かさず続けてきていることからも想像できるが、このことが、白河一族が岡田藩から一目置かれ信頼される、ひとつのよりどころともなった。
それから、もうひとつ、佐治衛門にとって有り難い存在となったのが、この一族の分家となる石貝家であった。この石貝家には、佐治衛門の代より五代前に「善兵衛」という人物がいて、この善兵衛さんには運よく四人の男子が誕生したのである。しかも、室として迎えた奥さんが、さらに三代前の戦国時代、当時備前備中などを支配していた宇喜多家の家老をしていた石貝次郎左衛門半斎という傑出した人物の子孫であった。
丁度、豊臣秀吉が強行した朝鮮出兵の時、出陣した宇喜多秀家の留守居役の城代家老を務めた武将でもある。ところが、善兵衛の奥さんの実家には跡継ぎの男子がいなかった。それで、この家で生まれた四人の男子の内、長男と次男が白河姓を継ぎ、三男と四男が石貝の養子となり、石貝姓を継ぐことにしたのである。
しかも、その内のひとりが同じ市場村の中で居を構えた。勿論、由緒ある武家の家系であり代々岡田藩に仕官したために、佐治衛門と岡田藩との間を取り持ち、何かと便宜を図ってくれて、いい関係を保つことができたのであった。石貝家と佐治衛門の家とは、相当近しい間柄だったようで、両家ともに同じ墓地に埋葬されている。
ただし、石貝家は、途中から分家された家系だが、墓地は一段と高く土盛りされた高い所にある。やはり、武家の位は農民や郷士とは上と見なされていたことが分かる。
ところで、前述のように佐治衛門の庄屋は、他地域より恵まれた気象条件で農作物の安定的収穫が確保でき、収入アップにつながったわけだが、その資金をもとに彼は貸金業も営んでいたようである。それは、お金に困っている農家の百姓たちには低利や時には無利子で貸し付け、一方では、岡田藩や豪農、豪商クラスの人たちには結構高利で貸し付けたらしい。
お陰でそちらの方で結構儲けがあったようで、それだけ資産を増やすことができたのである。当時の庄屋の中でも、経済的に裕福な庄屋は、大抵副業に金貸しをやっていたそうだから、そのまねをしたのかもしれない。ただし、それだけ商才があったという証でもある。