陸から海へ拡大する東京
江戸時代から、そして明治以降も、江戸と東京は海に向けて拡大してきました。山を切り崩して地先に埋めて、都市のゴミを川の州に埋めて、海底を浚渫した土砂を積み上げて、海に向かって陸地を広げてきました。
徳川幕府が江戸に開府して以来実施した主要な埋め立て事業を挙げれば、入江だった日比谷の湿地帯を埋立てて大名屋敷の街並みを造り、隅田川河口を埋め立てて築地を造成し、隅田川の東側に広がる湿地帯を開削して陸地化し、小名木川以南では永代島をゴミ捨て場として埋め立て永代寺と深川八幡を創建し、明暦の大火(1657年)の後には多くの武家屋敷や寺社を隅田川の東の深川に移転させました。
明治時代に入ると、隅田川河口にあった石川島、佃島の周辺を埋め立て造船所を造り、続いて月島、晴海まで埋立てて産業用地にしました。昭和時代に入ると埋め立て事業は更に南下して、東雲東運河と豊洲運河を結ぶ線を越えて、豊洲、東雲、有明、辰巳、夢の島、新木場、若洲の埋立地を造成しました。その埋め立ての勢いは、明暦の大火で江戸府内から墨東の地に江戸が拡大した時代を上回るものでした。
しかし、戦後の高度成長期が過ぎると、これら埋立地に立地した重化学工業は地方や海外へ転出していき、工業用地として開発された埋立地は空き地となっていきます。丁度その頃、都内ではオフィスなど業務機能用のオフィス立地が過密になってきたので、昭和の末期から平成にかけて都市内の業務機能は湾岸の空いた埋立地に移転し始めました。
お台場のように更地に大規模な新都市を建設し、そこに移転する場合もありましたし、工場や公共施設が撤退して空き地となった埋立地を再開発して新都市を建設し、そこに移転する場合もありました。こうして近年、東京では都市そのものが陸から海へと移動しているのです。更に、都市だけでなく、大規模の自然公園、運動施設、レクリエーション施設なども臨海部に移動しています。