マニラ人間模様
東京での五日間の休暇はあっという間に過ぎ去った。本社へも挨拶に行ったが、二年前の研修で講義をしてくれた人たちは不在だった。顔を見知ったスタッフも皆忙しそうで素っ気ない対応に終始し、食事や飲みにも特に誘われることはなかった。国内と海外のスタッフ間の溝を何となく感じたが、仕事上あまり接点もなかったのでこんなものなのかもしれない。
親しかった中学、高校時代の友人たちの何人かとも会い、近況報告をし合った。すでに結婚した奴が三人もおり、その内の一人はすでに子供を二人もつくっていたのには驚いた。
二四歳の独身男にとって、海外転勤といっても荷物はスーツケース一個に収まってしまう。出発前の晩は実家で両親と二人の姉の五人で食卓を囲んだ。私立高校で英語の教師をしている父親の吉純は、かわいい子には旅をさせろと覚悟を決めているらしく、シカゴに行く時も「お前のやりたいようにやれ」と送り出してくれたし、今度のマニラ行きの転勤を知らせた時も「一年中暑い国らしいけど、体には気をつけて頑張ってこいよ」と励ましてくれた。
ただ、本心は英語の教師になってくれていたらとまだ思っているのだろうか。大学時代に、確か教育実習に行っていた頃だったろうか、親だったら誰でも子供に自分と同じ職業に就いてもらいたいんじゃないかと漏らしていたのを思い出す。
母親の福代は遠い親戚にフィリピンのレイテ島で戦死した人がいるらしくえらくピント外れな心配をしていたが、戦後何年経っていると思っているのだろう。姉たちは「フィリピンって海がすごくキレイなんでしょ。今度遊びに行くから、いいとこ連れてってね」と脳天気だ。こっちは仕事で行くというのに。でも、久々にくつろげた夕食だった。
空港には母が見送りに来てくれた。最後まで体から心配オーラを出しっ放しだったが、仕事に慣れたら「親父とお袋をマニラに呼んでやろう」と正嗣は心に誓い成田発大阪経由マニラ行きのJL747便の機上の人となった。
マニラ国際空港のターミナルビルはできたばかりのようで、意外ときれいなのには驚いた。メインターミナルに続くコンコースを歩いている途中、正嗣はさわやかで何とも甘い香りを感じた。その香りは壁際に据え置かれた一メートルほどの台座の上に立つマリア像から漂ってきているようだ。
優しい眼差しで見下ろしているそのマリア像の胸の前で組む両手にはいくつもの白い花の蕾のレイがかけられており、どうやら甘い匂いの正体はその花の香りらしい。それに気づいたちょうどその時、後ろを歩くカップルの会話が耳に入ってきた。