日本編

転職

かくして十二年間この会社で苦楽を共にした多くの人たちに別れを告げることになった。

この決断は人生の大きな分岐点であったことに間違いない。一九六八年六月のことだった。

その翌日、東京本社に退職の挨拶に出向いた。前述の社長が部課長と共に慰労の席を設けてくれた。退職についての説明もうまく話せなく多くは語れなかった。歯切れの悪い会話になってしまった。

少なくとも社長は専務時代から重用してくれていたのでその恩義はいつも感じていた。ただ政裕が開発した製品が会社に利益をもたらしているので会社には借りはないと思うことによって罪悪感を打ち消していた。

引っ越し荷物をトラックいっぱいに積み込み社宅から夜の雨のなかを送り出したあと、政裕は家族と戸締りをし、会社の後輩に車で東京に送ってもらい、ホテルで一夜を明かした。夜逃げのような引っ越しだった。

翌日、決められていた住所に到着、引っ越し荷物のトラックも無事到着した。荷物の整理に数日を要した。門構えの一軒屋で敷地も広く車一台軒先に駐車できた。転職先の総務課長によって借家の手配一切がされていた。

再就職を果たして約三か月経ったある日、前の会社、西洋化成品の本社側で開発部の仕事で相互連絡していた大学の先輩の宮本氏から電話があり、西洋化成品が親会社、西洋化成に吸収合併されたというニュースを知らされ驚いた。

研究開発部門は西洋化成に統合されるということだった。埼玉工場は西洋化成の管理下に入り、工場長も西洋化成から派遣されるという。工場全体が寝耳に水だったに違いない。

ロケット推進薬の製造は西洋化成愛知工場に移管され、工場の広大な敷地は売却される計画だった。親会社、西洋化成の経営合理化が迫られていたことがその景にあった。

社長自らは当然その併合を西洋化成幹部と条件などに合意していたはずだ。

政裕が辞めるきっかけになった埼玉工場での会議の時点では公表できなかったのだ。これですべてが説明されたことになる。これを機に、多くの同僚たちが転職していった事実を知らされた。

政裕がその先鞭をつけたことになってしまった。

在任中多くの開発プロジェクトを共にした仲間たちを置き去りにして会社を辞めたことに対する罪悪感が解消されて気が晴れる思いだった。

宮本氏のこと

彼は九州工大の四年先輩だった。

東京都庁の火薬関係の技官から西洋化成品に横滑りの途中入社した人だった。彼は学生時代、若い女性と学生結婚をし、大学の独身寮の部屋で他の寮生を追い出して同棲していたことがあるという逸話を持っていた。

政裕が西洋化成品に在任中、彼は本社の技術部に居て、工場の開発課との連絡と製品化された製品の販売計画、技術資料などの作成などを担当して、政裕と常時連絡を取っていた。彼の企画能力と実行力は抜群だった。

政裕の技術開発活動がうまくいったのは彼に拠るところが大きい。

彼には二人の娘さんがいた。